次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

10月 決定的な日

さていくつか記事を書いてきましたが、わたしは正直自分が病んでいく様子を書きたくてこのブログを始めたのではありません。どうやって自分を立ち直らせていったのかを書きたいのです。

なので、もう率直に、何故病んだのかを言います。

 

・周りからの監視の目が怖かった

・職場環境と合わなかった

・自分を思い詰め過ぎた

 

大きくはこの三つだと思います。

このすべて、自分の状態が悪くなるまで、自覚はありませんでした。むしろ、「自分は定時で帰れるし、大きく怒られもしてないし、恵まれている」と思っていました。ツイッターで流れてくるブラック企業にも当てはまらないし、大丈夫だろうと。

 

そう思っているうちに、「仕事は出来るけどサボっている好母ひおり」を何とかしようと、周りの行動は変わっていきます。

まず、わたしだけに日報を書かせるようになりました。何をどれほどの時間をかけてやっているのかを書くように言われました。この時のわたしは元気がなかったので、どうしてやるのですか?と聞くことは出来ませんでした。

次に、やっている業務について、テストをすることになりました。これもわたしだけの特別メニューです。わたしだけがやる事が、どんどん募っていきました。

流石にこれだけやられたならば、いくら鈍感な自分でも、信用されていない事は分かります。信用されない行動を起こしたのはわたしだったのかもしれませんが、何より怖かったのは、それでも表面上はにこにこと仲の良い職場を装っていることでした。

 

わたし自身、一番苦手なことでした。

腹に黒い何かを抱えながら顔を笑わせるのは。それを感じる事も、見る事も。

それを感じてしまった時から、完全に職場を信用できなくなってしまいました。耐え切れなくて電車の中で迷惑をかけないようコソコソ泣いて、最寄り駅に座り込んで泣きながら信用出来る友達に電話したのを今でも覚えています。今でも思い出すだけで涙が出そうです。

表面上は笑顔だけれど、その裏で、厳しい監視の目を向けられている。その恐怖で仕事が進むはずもありませんでした。悪い方に悪い方に転がっています。

席を外す時も、自分がいない間に悪口を言われているのではないかと、気が休まりません。(そういう職場だったので……)

 

決定的だったのは、そのテストが悪かった日です。テストを作った人に呼び出され、こう言われました。

「このテスト、好母さんのために作ってるんだよね。こうでもしないと勉強しないから」

……こうでもしないと勉強しない。ああ、そんなに信用されてなかったのか。そういう人間だと、思われていたのか。努力もしなければ、監視しなければ何も出来ない人間だと思われていたのか。

この瞬間、自分の中の全部が一気に崩れ去りました。目の前が真っ暗になったとはこの事を言うのだなと、今でも思っています。覚えているのは、その後に届け物をする時です。

既に何回も行っているフロアに郵便物を届けるだけだったのですが。その道が、思い出せないのです。エレベーターに乗ってボタンを押す時、あれ、確か、何階だっけ、としばらく迷いました。

 

明らかに自分の身体がおかしいことに気付きました。例えばキーボードで文字を打つ時、指が動く感覚はあるのですが、何を打っているのか頭に入ってこないのです。電話対応をしている時、口が動き声は出るけれど、何を話しているか自分で把握出来ない。自分が話しているのに。

おかしい。これはおかしい。これは危険だ。

わたしは慌てて、その日の仕事帰りに、会社にいる、5月から変わった次長に電話をしました。

その次長さんが、今日に至るまで本当にお世話になった方です。

当時、9月に面談をした時、快活な話し方とズバズバした物言いに好感を感じていたので、相談した方が良い、この人には相談出来るだろうと判断しました。

 

「すみません、ご相談したい事があるんですけど」

「良いよ。いつにする?」

 

思えば、久しぶりに、人に安心して相談などしたような気がします。

 

「明日は難しいので、明後日で……」

翌日はなんとか堪えながら仕事をしました。この日を耐えれば相談出来ると、それだけを希望に何とか踏ん張りました。

翌日の業後、会社に相談をしに行きました。記憶力がないこと、電車や通勤時に勝手に泣いてしまうこと、などなど、今起こっている自分の身をすべて告白しました。

「俺じゃ判断出来ないから、お医者さんに行ってきな」

この判断は冷静だな、と思いました。もっともです。

「ていうか、その状態でよく昨日と今日仕事してきたね。偉いじゃん」

その時の自分は、心がズタボロだったので、「いえ、自分が悪いので」と言うことしか出来ませんでした。人の褒め言葉にまで、否定的になってしまっていました。

 

結論が出て、背中を丸めてふらふらと帰ろうとした時、頭に何かが乗せられました。慌てて振り返ると、新しい次長(以下上司さん)がわたしの頭に手を乗せていました。

「じゃあ、気を付けて帰って」

わたしは頷いて、帰路に付きました。

その時。初めてふつふつと、ある思いが生まれました。

(どうしてわたしはこの人がいる所で仕事していないんだろう)

ずっと恵まれている、自分は恵まれていると思い込んできました。これで満足で、環境に不満などないと思っていました。

これが社会人なのだから仕方ない。これが大人だから仕方ない。定時で帰れているのだから恵まれている。激しく怒られもしていないのだから恵まれている。

そんな中で感じた気持ちでした。就職する時に感じた、この人の下で仕事がしたい、という気持ち。

この時から少しずつ、もしかしたら、自分はなにかに気が付いていたのかもしれません。

 

後日、精神科にかかりました。

詳しくは省きますが、この時過呼吸にもなって、刃物は持ち出していないのですが自傷もしていて、本当に危ない状態の一歩手前でした。

新人ということで、最大1ヶ月の休職を貰うことになりました。

…………正直な話、1ヶ月では全然足りませんでした。友人と楽しい時間は過ごせましたが、それでも体力は低下し、一時期は味覚も失っていました。

しかし、12月。休職から復帰という形で、支店に向かうことになります。

 

ここからが、このブログを書こうと思った本番です。ここから、本当の戦いが始まります。詳しくはまた次回。

第一回 アルジュナさんとカルナさんのはなし

ツイッターではもうたっぷりしたアルジュナさんの話ですが、今日はある一点に集中して、アルジュナさんとカルナさんの関係を考えてみようと思います。

ぶっちゃけFGOのいわゆるインド兄弟に興味が無い人にはとてもつまらない記事になると思いますが、元々好きでやってるブログなので、そこはご了承ください。

ちなみに、今回の記事を書くのに参考にしたのは、「FGO体験クエスアルジュナ&カルナ」「FGOメインストーリー5章」「FGOメインストーリー終局」「FGOマイルーム会話」「FGO幕間の物語アルジュナ2」「エクステラリンク」が主です。これらの直接的なネタバレは書きませんが、一部セリフを引用します(テラリンは控えめにしています)。ご注意ください。

 

さて。そもそも何故この記事を書くのに至ったかと言うと、「アルジュナはカルナを理解している」という旨のツイートを見たからです。

これを見た時、わたしは首を傾げました。既にテラリンはプレイしていましたが、そう思った記憶もありません(八割あの熱いシーンに持ってかれたのもあり)。しかしテラリン発売後、そのようなツイートが各所でよく見られました。

認識が間違っているのは自分なのかもしれない。そう思い、二日程かけて、もう一度アルジュナさんとカルナさんの会話を、思い付く限り回収しました(今回はFGOのイベントは除きました)。もう一度見つめ、読み砕きました。

今回は、その二日間の研究とも言える行為のまとめとも言えます。長い記事になりますが、お付き合いしてくださると嬉しいです。

 

念の為、アルジュナさんとカルナさんについてを、簡単にここに記します。

アルジュナさんとカルナさんは、「マハーバーラタ」に出てくる登場人物です。

マハーバーラタは他にも多くの人物が登場しますが、アルジュナさんはその中でもあらゆる武器を授かり、その力でことごとく敵を打ち倒した英雄です。そのアルジュナさんと物語の終盤までライバルの立ち位置であったのがカルナさんです。

アルジュナさんは知りませんが(型月ではどうなのか不明瞭)、二人は異父兄弟。カルナさんは産まれた時に母クンティーに捨てられ、御者の息子として育ち、類まれなる運命によりアルジュナさんと敵対します。

……というのは、恐らくFGOのマテリアルを見ればおおよそは分かることではないでしょうか。この記事では、もう少し視点を変えて、二人の性質に関係のあるところにまで突っ込みます。

 

マハーバーラタは、運命の物語です。

戦士として生まれたからには誇り高く生き、御者として生まれたからには御者として生きていく。一度神から掛けられた呪いは、どうあっても解く事は出来ない。根が弱虫でも、王子として生まれたからには、国を守るために戦わなくてはならない。そんな世界です。

そんな世界の中で、カルナさんは御者の息子から実力で戦士に成り上がった、いわば身分制度を打ち破る希望の光でした。彼にとって立場とは、変えられる、打ち破れるものです。

アルジュナさんは、戦士として生まれ、戦士として愛され、誇り高く武器を携えて兄弟と共に生きた英雄でした。彼にとって立場とは、不変なる、絶対的なものです。

この二点が、二人を語る上でとても大事になってきます。片隅に置いておいてください。

 

では、本題です。

アルジュナはカルナを理解しているのか?」

いえ、しかし待ってください。その前に、ひとつ考えることがあるのでは。

 

アルジュナは他人を理解する人間なのか?」

この質問、カルナさんに置き換えると、これ以上なく簡単です。カルナさんはアルジュナさんに限らず、他人のあらゆる事を見抜き、暴き、反感を買われる程です。

アルジュナさんはどうでしょう。彼は、人の何を見ているのでしょうか。

アルジュナさんは基本的に、カルナさん以外のサーヴァントとの絡みはありません。幕間の物語も、今のところはすべて「彼の自己完結の物語」でした。そして、彼が登場する時、いつも己の事を語ります。

「私のこの想いは」「私を見ないでください」「このアルジュナ」「この憎悪と妬みは」

おそらく九割アルジュナさんの口から出ているのは己の事です。しかし、この文章を読む人の中で、このような人もいると思います。

「カルナの事はよく言っているのでは?」

わたしも最初はそう思っていました。カルナさんとの敵対がキャラクターとしておいしいポイントでもあるアルジュナさんは、カルナさんのことはよく言っているはず。

アルジュナさんはカルナさんの事をこう言っています。

「カルナ、私はおまえが憎い、そして羨ましいよ」

「私にとって、カルナこそ宿命の敵」

「あの男はきっと、正しい存在なのでしょう。人を正しく人だと認識し、その身を全て善行に捧げるような英雄なのでしょう」

これと、テラリンでもひとつ言及しています。「私の知るカルナは」と。

…………実は、アルジュナさんがカルナさんに対して「おまえはこういう男」だと言っているのは、本当にこれくらいしかありません。しかも、一つ目に関しては己の感情の吐露です。

正しき英雄。正しき男。善なる者。

そんな、ふんわりしたことしか理解していないのです。実は。テラリンでも例外はありません。「善なる英雄」以上の事を、アルジュナさんの口から語られた事は、実はないのです。

逆に。カルナさんからアルジュナさんへ、語られた事はとても多いです。「己を誤魔化すな」と、導きとも取れる言葉を送った事もあります。

 

「インド兄弟はお互いにお互いを理解し合っている」と聞いて感じる最大の違和感は、そこにあるのです。

アルジュナさんは、カルナさんの事だけを考えているのではありません。とんでもない。むしろ、自分の事しか考えていない。否、自分の事しか考えられない、と言った方が正しいでしょう。

 

彼は常に自分が最上のサーヴァントだという意識を持って振舞っています。そうすると、他に目を配る余裕はほとんどありません。あったとしても、それは正しいか、正しくないかで判断する。

この「正しい」「正しくない」の問いは、マハーバーラタでも頻繁に描かれた事です。この行為は戦士として正しいのか。この行為は正しき道を生きようとしてる者に相応しい行為なのか。

アルジュナさんの基準はそこにあります。その枠に当てはめ、正しくない事を恥とする。

それをしている限り、真の意味で他人を理解する事は出来ません。己の行動すらも枠にはめている時点で、彼は他人を理解する事など出来ないのです。

何故ならば。その時点で、己というフィルターを通して見ることになってしまう。そして、アルジュナさんは、ただでさえ「己」が強い人です。

「その傲慢さこそがおまえの真価だ」とカルナさんも言っていました。

強く己を持ち続け、正しく在ろうとする。わたしは、アルジュナさんというキャラクターの最大の魅力は、そこにあると思っています。

己を律し続け、在るべき姿で在ろうとする。大英雄の名を汚さないように。初めは己を晒すことに恥を感じていたが、マスターと出会い、恥を恐れないと決めた。

その魅力は、「他人を理解する」というフィールドでは、途端に欠点となってしまうのです。己を強く持ち過ぎるあまり、他人を見る事が出来ない。

これは、カルナさんの「他人を見抜く、理解する目がある」という魅力が、「心の中を暴き過ぎて相手に嫌われる」と裏目に出てしまうのと同じ事です。

 

そしてアルジュナさんの他人を理解出来ない要因はもうひとつ。彼が人を、己を、立場で見てしまう事にあります。

紹介動画で出ているのでそのまま載せますが、テラリンで「軍師として当然の義務です」と口にするシーンがあります。

初めに言いましたが、アルジュナさんは、戦士としての誇りを、英雄としての義務を第一に生きてきました。それが第二の生でも続いています。〇〇として、とまず第一に立場を取ります。それもひとつのフィルターです。変わらない絶対的なものと思ってるが故に、優先させているのでしょう。カルナさんと敵対する時も、「敵として」「対等な者として」「貴様が善につくのなら私は悪につく」「あの男が光なら私は闇になる」と、毎回正反対の位置に居ることを気にしています。

その証拠に、何者でもなくなった体験クエストでは、アルジュナさんは虚無に包まれています。立場なくしては、生きる気力もないような。そしてカルナさんを妬み羨む、本人曰く醜い感情こそ、アルジュナさんを生かすのです。カルナさんへの理解など、関係なく。

……そもそも、「一人の方が気楽で良い」とマイルームで語るような人が、他人を理解する気になるはずがなかったのかもしれません。

 

さて。ついでなので、もうひとつ、ここに書いておきたい事があります。記事としてはここで一区切り付くので、ここで終わっていただいても構いません。

今、FGO界隈は男と男の憎悪ブームで沸き立っています。詳しくは言いませんが。その枠のひとつとして、アルジュナさんとカルナさんが取り上げられる事がしばしばあります。

アルジュナさんが、カルナさんに殺意を持つ者として。愛憎、と言われたりしているのも見た事があります。そしてカルナさんは、それを受け入れる者として。

 

ではここで、ひとつ考えたいと思います。

「そもそも、アルジュナさんはカルナさんに殺意を抱いているのか?」

 

「あの男は私が殺す系サーヴァント」と言われているのも見た事があります。実際にそうアルジュナさんが言ってるシーンもあります。

「そもそも、何故『私が殺さ』なければならないのか?」

 

そして、もうひとつ。

「カルナさんは何故受け入れているのか?」

 

アルジュナさんとカルナさんが好きな人間として、この三点は、今、ここで書いておこうと思いました。と言うのも、この三点をはっきりさせることで、「殺し殺される関係」「お互いに殺し合わなければいけない関係」と誤解されがちの兄弟の関係性を明確に出来るからです。

 

「そもそも、アルジュナさんはカルナさんに殺意を抱いているのか?」

アルジュナさんは先程つらつらと書いた通り、基本的には自分の事しか考えていません。それなのに、カルナさんにだけ異様な妬み、憧れ等の感情を抱いています。その理由に関しては、仮説はありますが、今回は割愛します。

問題は、「アルジュナさんがカルナさんに勝負を仕掛けるのは、その感情によるものなのか」という話です。

その感情に、妬みに、憧れに駆られるがままに殺そうとしているのならば、憎悪による殺意と言っても良いでしょう。今話題の彼(怖いので敢えて名前は伏せます)との共通点も見えます。

しかし。そうすると、気になる所が多々あります。

 

ひとつ。感情に駆られているにしては、手段と立場にこだわり過ぎている。

アルジュナさんはカルナさんと戦う時、「お互いに全力を出すか」「お互いに敵同士の立場であるか」を、どの作品でも毎回確認しています。ただ殺したいのならば、手段なんてどうでも良いはずですし、確実に殺したいのなら全力を確認するまでもありません。

それなのに、毎回確認している。そして、5章でカルナさんと向き合った時、アルジュナさんはこう叫んでいます。

「今度こそ対等のものとして、貴様の息の根を止めねばならん!」

 

ふたつ。「殺す」ではなく「殺さなくてはならない」という言葉。

「カルナは私の宿敵です。サーヴァントとして、幾度と無く刃を交えねばならない」

幕間2でのアルジュナさんの言葉です。アルジュナさんは度々、「貴様は殺さなくてはならない」という意味合いの言葉を叫んでいます。

それが運命だと。それがサーヴァントとしての在るべき姿であり、アルジュナとしての在るべき姿でもあると。

重要なのは、「ならない」という言葉です。そうしなければいけない。そうしなくてはならない。「したい」のではない。アルジュナさんの、心からの思いではないのです。

「殺す。殺したい」ではない。「殺す。殺さなくてならない」。

これ、すごく大切だと思っています。

本当に、アルジュナさんはカルナさんを殺すことを、望んでいるのでしょうか。望んでいるとしても、何故なのでしょうか。衝動的なものでなければ、感情的なものでなければ、「殺さなくてはならない」理由は、何なのか。

 

「そもそも、何故『私が殺さ』なくてはならないのか?」

理由だけなら、いくつか思い付きます。「おまえは私だけが倒せるくらい強いのだから」とか、「私に倒されるくらいでなければ張合いがない」とか、「私以外に倒される姿を見たくない」とか。

今までの事をまとめると、アルジュナさんには、「お互いに全力で」「誰にも邪魔されることなく」「卑怯な手を使うことなく」「敵で、かつ対等な立場で」カルナさんと決着を付けたい理由があります。上記の理由は、どれも当てはまりません。わざわざそうする必要がないからです。

「すべてを万全にした状態で」戦わなければならないのです。万全にならない状態ならば、敵意を抑えて協力する程です。それほどまでに、アルジュナさんにはこだわりがあります。

強い者と、強いライバルと、正々堂々勝負がしたいから?

いえ。そうなると、「殺さなくてはならない」という物は必要にはなってきません。戦うだけなら、勝負するだけなら、いつでも出来ます。生死のこだわりは必要ありません。

「殺さなくてはならない」のです。万全な状態で、正々堂々と、カルナの首を取らなくてはならない。

 

それは、カルナさんの為でしょうか。自分の為でしょうか。今までの流れでいけば、自分の為でしょう。カルナさんの為になる事は今のところ一つもありません。

自分の為に、万全の状態で、首を取らなくてはならない。殺されるリスクを犯してまで、全力の勝負を、しなければならない。したいのではない。しなければならない。

何故?

ここまで突き詰めれば、理由は浮かんでくると思います。

 

生前、卑怯な手でカルナを討った己を、己の罪を、塗り替えたいから――というのが妥当でしょうか。

敵で。卑怯な手を使わず。正々堂々と。「殺さなくてはならない」。そうしないといけない。そうしないと、英雄としての汚点は永遠に晴らされない。

マハーバーラタで、彼は、正確には彼を含めた兄弟は、敵に卑怯者と罵られました。カルナさんを殺した時とは別の場面ですが、戦士として恥ずべきことをしてしまったと、心から後悔しました。その一方で、動けない状態になりながらも堂々と死んでいったカルナさん。どれ程アルジュナさんの目には眩しく見えた事でしょう。

第二の生があるならばやり直したい。あの瞬間を。あの時を。あの汚点を。

5章で、「だからこそ貴様を殺す事を聖杯への望みとした」とアルジュナさんは語っています。

呪いも、宿命も、神もいない。正々堂々とした勝負が出来るからこそ、今こそ、己の業を塗り替えるのだと。

……そんな己の罪への理由ならば、「殺したい」でないことにも説明が付きます。

あの瞬間を塗り替えたいだけ。あの罪を、あの恥を塗り替えたいだけ。塗り替えなければアルジュナで居られないだけ。

ただそれだけのために、もう一度、死んで欲しい訳でもないカルナさんを殺すのですから。

 

「カルナさんは何故受け入れているのか?」

アルジュナさんがカルナさんを殺したい理由が己の罪を晴らしたいが為ならば、何故カルナさんはそれを受け入れているのでしょうか。彼に利はないはずなのに。

と、その前に言っておきますと、「受け入れる」とは、「言うことをきく」ではありません。

終局でカルナさんは、このような事を言っています。

「オレとて聖人ではない。憎まれれば憤りを感じる事もある」

カルナさんはあらゆる事をそれもありと受け入れますが、それはそれとして、彼自身の思いもあります。その辺りはしっかりしている人です。

その上で、受け入れている。それは何故か、と考えたいと思います。

 

ここでひとつ気になることがあります。

上のカルナさんの言葉は、謙虚でもなく真実だろうと考えています。その上で、カルナさんはアルジュナさんに対して、憤っていません。

おまえが羨ましい、妬ましい、この憎悪を、とアルジュナさんが言いながらも。むしろ、戦士としての健全な戦いを提案してくれています。

ここから先は推測が多くなりますが、わたしの考えをここに書きます。

アルジュナさんが、英雄としてではなく、「アルジュナ」として行動する事を、感情を抱くことを、カルナさんは望んでいたのではないでしょうか。

体験クエストにて、カルナさんは「オレの目的など小さいものだ」と言いながらも、マスターにアルジュナさんを「導いてやってくれ」と託していきます。その結果が「アルジュナ」としての道を見つけた幕間2だとすると、カルナさんの方にもそのような望みはあったのではないでしょうか。

アルジュナ」として第二の生を生き、「アルジュナ」を誤魔化さなくとも、並び立つ事は出来る。終局のカルナさんはそのような事を語っています。

以上の事から、カルナさんはアルジュナさんを殺したいとは思っていないと考えます。そもそも彼が無用な殺害を望むとは思っていませんが……。テラリンでも宿業を憂うような発言をしていました。

 

そうなると、完全にこの関係性はアルジュナさんの一方通行になっています。それでもカルナさんは応えます。全力を持って、死を覚悟して。

カルナさんはきっと、アルジュナさんが、そうしなければ生きられないと知っていたのではないかと考えています。「全力を持って対等な立場で貴様を殺さなくてはならない」と叫ぶ彼に対して、戦いを放棄することなど、手を抜く事など、戦士としても、きっと兄弟の縁としても出来なかった。

何故なら、それでこの戦いは無意味だとでも言ってしまえば、アルジュナさんは今までの流れでいくと、完全に第二の生を生きる目的を見失います。

対等な立場で勝負をする事こそ、戦士としての誇りを奪い合うからこそ、アルジュナは生きることが出来る。体験クエストはまさにそのような流れでした。

カルナさんは勝負を約束しながら、アルジュナさんを生かしている。だからこそ、そのひとりよがりの勝負をも受け入れている。

こうして書いてみると、カルナさんがどれほど思慮深いか感じる事が出来ます。わたしの推測も多いですが、しかし。

「正しく生きようと願う者がいるかぎり、オレは彼等を庇護し続ける」

5章のカルナさんの言葉です。テラリンにも似たような言葉が出てたと記憶しています。

――正しく生きようと願う者。

正しい英雄で在ろうとするアルジュナさんも、カルナさんにとっては、正しく生きようと願う者なのではないでしょうか。

そして、アルジュナさんと全力で戦い、たとえ殺されたとしても――カルナさんは、それを誇りに思って微笑むのです。

正しき戦士と戦えた事を。それを幸運だと思いながら。

 

何が言いたいのかと言うと。

アルジュナさんもカルナさんも、心から相手の殺害を望んではいない。

そして、アルジュナさんが己の罪を受け入れることが出来たのなら、殺し合う必要はなくなる。

アルジュナさんとカルナさんは、「殺し合う関係性」とは言いきれない。という話です。

 

以上で、記事は終わりです。

この記事でアルジュナさんとカルナさんの関係性が伝わってくれたらなあと思いながら、締めにしたいと思います。

ここまで長い文章お読みくださり、ありがとうございました。

 

※追記※

※の間にある言葉について、カルナさんのことを掘り下げながら考察してみた記事で、意見が変化しています。

https://musicbell17.hatenablog.com/entry/2018/07/20/003252

最終的な結論は変わりませんが、よろしければこちらもお読みください。

6月 予兆

仕事が落ち着いてきたので、更新を再開します。

5月に、上司に相談できない苦悩が積もり、6月になっても己を責め続けていました。

 

上司に声をかける、そんな簡単なことが、何故出来ないのかと。何故、声が出ないのかと。

この時の「何故」は、原因を探るための「何故」ではありません。自分自身を傷付けるための「何故」です。「出来ないなんて、最低だ」の「何故」です。

この時期、一度上司に呼び出されていました。「仕事自体はよく出来てるんだけど、勤務態度が良くないね」と言われました。前回も書いた通り、話し掛けられなくて固まっていたのが、サボっているように見えたそうです。

 

そして、6月の後半。朝、出勤してきて、いつも通りに自分のデスクに座ろうとしました。

自分のデスクを見た瞬間、PCを見た瞬間、目眩がしました。吐き気がこみ上げました。慌ててお手洗いに行って、そこからはあまり記憶が無いのですが、自分でかなり混乱していたと記憶しています。

どうして?と自問する余裕もなく、わたしは上司に「気分が悪いので帰ります」と申請しました。上司も、顔色が悪いから休んで、と言ってくださいました。

 

流石にデスクを見て気持ち悪くなったのは異常だと、その日の帰りに考えていました。けれど、精神病かの確信は得れません。偶然精神状態が悪いだけかも、とも思ったりしていました。

 

一応、念の為に言っておくと、ここまで、いわゆるブラック企業のような側面は職場にありません。

定時に出勤し、定時に帰ります。怒鳴られることもなければ、無理強いされることもありません。理不尽もありませんでした。

 

ただ。今思うと、ひとつ、引っ掛かることがあります。

職場は、いわゆる身内ノリが強いところでした。ひとりの意見に全員が賛同しないと、という雰囲気がありました。その中でも、わたしの上司だった人は、基本的に気を遣う良い人でしたけれど。

ひとつ。オタクに対して偏見を抱いている人でした。特に女オタクや腐女子に、嘲る目を向けている人でした。

いつも賑わっている場所だったので、世間話は耐えません。ゲームの話もしていましたが、たまに、腐女子を笑う発言がありました。

わたしのツイッターをご存知の人はよく知っていると思いますが、わたしは腐女子です。女オタクです。

上司に対して、怒りはありません。ただ、この人に自分を見せてはいけない、と、思ってしまいました。きっと嘲笑われるだろうと。小さな世界にその嘲る視線が広まって……と考えると、怖くなりました。実際、自分を抜きにしても、高校生のような上下関係があったところだったので。

 

そういう意味でも、自分をひた隠すのに必死になっていたところはあったな、と今は感じます。そして、それを、「社会人はこういうもの」と誤魔化していました。

自分を隠していて当たり前。自分を見せなくて当たり前。自分を押し込んで当たり前。

家でも会社でも、そうして過ごしていました。当たり前のことなので、愚痴を言うこともありません。

 

……さて、ここからは、実を言うと休職するまで記憶が薄いです。もう病が始まっていたからだと思いますが。8、9、10月はまとめて投稿したいと思います。

イナズマイレブンGOギャラクシーのはなし

今期からアレスも始まりましたし、イナズマ界がかなり賑わってきているように感じます。わたしも深夜枠で見ています。万作くんがかわいい。

せっかくなので、いつもの備忘録はちょっとおやすみして、わたしが一番好きなイナズマイレブンの話をしようと思います。

イナズマイレブンの事をよく知らない人にも分かるように説明すると、イナズマイレブン(以下イナイレ)は「円堂世代」「天馬世代」と分かれており、現在放映中のアレスは「円堂世代のパラレルワールド」です。

円堂世代は中学二年生GKキャプテン、円堂守が主人公。天馬世代は中学一年生MFキャプテン、松風天馬が主人公。かつ天馬世代は、円堂世代の10年後という設定です。「イナズマイレブン」「イナズマイレブンGO」とタイトルが違いますね。あと「無印」「GO」とか言われたりもします。

わたしが好きなのは天馬世代の「イナズマイレブンGOギャラクシー(以下イナギャラ)」です。イナイレは大体一年周期でストーリーがガラッと変わるのですが、イナギャラは天馬世代の最終作で、「ギャラクシー」の名の通り宇宙でサッカーしたりします。

 

はい。宇宙でサッカーです。某超次元テニスは演出でコスモが広がってたりしていましたが、これは比喩でもありません。

「宇宙でサッカー」だけだと「は?何それ超次元乙」で離れていく人もいると思います。

加えてイナギャラは、メインとなるサッカーチームに、今までの主要キャラが三人しかいません。二年間前シリーズまでで培ってきた思い出はほとんど蚊帳の外です。そして今まで試合でメインになってきたシステムもほぼさようなら。システムもキャラクターもほとんど新規。

三作目とは謳っていますが実質一作目です(?)。わたしも最初にキービジュアルを見た時はオイオイ何してるんだこれと思わずにはいられませんでした。イナイレクラスタはキャラクターファン色が濃いところもあるので、わたしのTLは結構荒れていたのを覚えています。まだ若かったのもあっただろうけど。

 

さて、そんなイナギャラですが、具体的にどんな所が好きなのかじっくり語っていこうと思います。せっかくのブログなのでこういう活用もしなくては……。

ここからは好母ひおり個人の感想、意見になります。あしからず。

 

おおよそはこちら。

・キャラクターの掘り下げが好き

・各キャラクター達の性格その他の「立ち方」が好き

・ぶっ飛びながらも突き詰めると王道路線を通っているストーリーが好き

 

という事で、順番に。

・キャラクターの掘り下げが好き

これは、「掘り下げ方」と言っても良いです。

イナイレは大抵、主人公が学校に行き、学校、部活での生活が描かれるので、基本的に主要キャラのプライベートを描く事は少ないです。家が出てきたとしても、家庭内の問題だとかはあまり出てきませんでした。無印だと豪炎寺と鬼道さん、GOだと剣城くらいかな……?神童さんも確か家なら出てきた。

その家庭内事情が出てくるのは中盤〜後半である事が多いです。ある程度キャラクターを知ったところでお家に行ったり、家族が出てきたり、ということが多かったのですが、イナギャラはそこが異なります。

 

イナギャラの主要キャラは11人中8人が初登場になりますが、各キャラクターの主役回がそれぞれ用意されています。

初登場のキャラクターは各々サッカーとはまったく関係の無い分野で生きてきて、事情があって日本代表(建前)に加わっているのですが、その事情が序盤でしっかりと明かされるんですよ。8人分しっかりと。

ここが、わたしがイナギャラに惹かれたきっかけでもあります。ここまでキャラクターひとりひとりを描写するの、結構珍しいと思ったんですよ。

初登場のキャラクターばかりでうーんってなってたのが、ここで一気に吹き飛びました。おお、面白いじゃないか、イナギャラ!

 

・各キャラクター達の性格その他の「立ち方」が好き

そしてここに繋がります。

掘り下げられるに連れて分かることですが、初登場のキャラクター達はサッカーではないジャンルのプロフェッショナルが集まっています。

陸上、ボクシング、バスケ、新体操、数学、人間観察……。あと九坂くんの不良頭とこのはちゃんの芯が強い優しさでしょうか。後々歌舞伎も加わりますね。

各々目標やら叶えたい願い事のために集まっていて、後になってこのメンバーは「ソウル」という隠された力が秘められていたことが発覚します。

 

イナギャラがリアルタイムで放送してた時、こんなツイートをちょくちょく見ました。

「結局イナギャラって、才能が全てだから好きじゃない。前に出てきたキャラクターはあんなにサッカーが好きなのに才能がないってだけで出れなくて可哀想。サッカーが好きって気持ちで努力が実る前の方が良いな〜」

いやいや、いやいやいや、待ってください!!!

これ、もう4年くらい前から流れてきてた言葉なんですけど、当時からめちゃめちゃ引っかかってたんですよ!!今ならその違和感の正体がわかります。

 

イナギャラの新規メンバーの中で、「才能もあって好きって気持ちもあるのに決して実らなくなってしまった」子がひとりいるんですよ。

ボクシングが命だった鉄角真くんです。

ひたすらボクシングに打ち込んで、体力作りをしている時もシャドーボクシングを欠かさないような子です。けれど、怪我をしてボクシングが出来ない身体になってしまいました。

好きって気持ちもある。才能もある。それでも怪我のひとつで続けられなくなる。

スポーツ選手の恐ろしい落とし穴です。実際、鉄角くんの初登場時は、言葉の端々が尖っていて近寄り難い雰囲気を出しています。本当はみんなを励ましてくれるムードメーカーで、男らしく、明るい男の子なのに。

才能がすべてだなんてとんでもない。むしろイナギャラは「才能がすべてではない」ということを教えてくれる作品です。

 

たとえ才能があったとしても、いくら目標があったとしても、体験したことのないジャンルに飛び込んで、しかも日本代表として頑張っていくのは並のメンタルでは無理です。

それでも、新規メンバー達は、少しずつこんなことを言っていくんです。

「サッカーって楽しいじゃん!」と。

知らないことを好きになっていく。興味のなかったことに楽しみを見出していく。これ、イナギャラの最高の魅力だと思っています。

思い出してください。彼らはサッカーとは関係のない、プロフェッショナルの人間達です。

プロフェッショナルってどういう事かというと、努力の大切さを知っているんですよ。

練習の大切さを知っている人達です。地道な積み重ねの大切さを知っている人達です。それはジャンルのまったく違う土地、畑が変わろうと、何も変わりません。

 

わたし、推しが井吹宗正くんなんですけど、彼が好きになったのもそういう所がきっかけだったんです。

新設日本代表は、たくさんの観客が見守る大々的な練習試合で、無様な姿と大敗を晒しました。大ブーイングの嵐を受けます。

その夜、今までの主要キャラだった三人は、素人を入れるなんてどういう事だと監督に抗議をしに行きます。その場所に、井吹くんが練習をしに訪れるんです。

この時ボロクソに叩いてた神童さんに言いたい事は山ほどどころか富士山ほどあるんですけど、この際それは飲み込みます。中学二年生だもんねそういうこともあるよね。ねー。

どんな大敗だとしても、負けたから、もっと努力する。知らないジャンルだからって諦めずに、黙って練習して一人前になろうとする。スポーツ選手としてこれほど適正持った人もそういないですよ。ただ井吹くんの場合は人と練習することを知らなかったので、かなり不器用な形になってはいますけど……。

ここで井吹くんを好きになりました。きっとバスケでもそうやって上手くなっていったのだと思いました。

井吹くんは悔しさをバネにするタイプで、ひたすらシュートを受け止める練習をしていました。ゲームでは、自分の蹴ったボールをひとりで受け止めていたような描写もあります。

「もうやーめた」なんて絶対に言わない。絶対に見返してやる。絶対に諦めない。ズブの素人だと言われても、決して諦めなかった。それに負い目を見せず、ひたすら自分の出来ることに打ち込んだ。自分に出来ることを。自分が身に付けているスキルを生かして。

 

めちゃくちゃ魅力的だと思いません!??!!!??わたしは思いました。とても思いました。誤解されやすいけど、根は本当に真面目なんですよ彼。ツイッターではものすごいいじられてたけど。

 

あと、イナギャラという物語の華やかさに一役かってるキャラクターがいるんですよ。

彼がいるから、イナギャラはここまで面白い話に出来たのではないかと思っています。何より、「サッカーが好きな少年」という設定を付けてしまっては一気に魅力が損なわれるようなキャラで、イナギャラでしか実現出来なかった人だと思います。

 

誰かというと、皆帆和人くんです。

彼の事を未だにイナイレ界のダークホースだと思っています。シリーズ通しても彼のような切れ者はいません。

皆帆くんは、人間観察が好きで、警察官を目指している男の子です。CVは代永翼です。皆帆くんの代永すごく好きなんだよな!!

それで、彼、鋭い故に、そしてまだ中一と幼い故に、思いもよらない作戦を立てては周りを驚かせるシーン、仲間に核心を突きつけるシーンなど、「中一のサッカー好きな男の子」という設定では成し遂げられない事の数々を飄々と達成しているんです。

今までイナイレで突拍子もない作戦と言うと、監督が訳の分からない事を言い出す→半信半疑でみんなやる→すごい!好転した!監督、スゲー!な流れが一般的だったんですよ。

それがイナギャラでは皆帆くんになります(全部ではないけど)。うわっ皆帆何やってるんだと言われながらも、自分の観察能力を信じるままにフィールドを駆け抜けます。この自由度がダークホースです。サザナーラ戦とか際立っていました。

多分イナギャラのダークホースと言うと、瞬木隼人くんが真っ先に挙げられそうです。彼は彼で色々抱えていましたが、イナギャラの物語に華を添えていたのは皆帆くんだったのではないかと。カリスマ性とはまた別の問題で、「何をしても皆帆だからと納得できる」みたいなところがあるんですよ。

万人に愛されるようなキャラクターではないけど、間違いなく「良いキャラしてる」と言えますね。シリアスもギャグも優等生でした。

 

・ぶっ飛びながらも突き詰めると王道路線を通っているストーリーが好き

イナギャラは登場人物の大半が宇宙人です。宇宙でサッカーするので。

けれど、やっぱり根っこは王道の熱血系漫画なんですよ。

・集められた仲間達と絆を深めて強い相手と戦う

・苦しくても今までやってきた練習が応えてくれる

素人と周りから罵られながらも、初登場メンバー8人は必死に練習して強くなりました。ふえ〜なんですかこれ><と弱気になる眼鏡男とかはいましたけど、わたしの記憶では、メンバーがサッカーに興味が出てからは練習をサボったりするシーンは見当たらなかったと記憶しています。

彼らは勝負のプロフェッショナルだったからではないでしょうか。わたしはそう思っています。

イナギャラは20話前後で話の方向性が全然違うものにシフトしていくんですけど、わたしはサッカーを練習して好きになっていく過程が好きなので、前半を見返すことが多いです。

そして今作は今まで以上に監督が使い物にならないので、メンバーみんなで乗り越えていく感じが良かったですね。ひとりの圧倒的なカリスマ性と言うよりは、皆が協力し合って助け合っていく。

そういうの好きなんですよ。何故かと言うと、ひとりのリーダーがすべてを賄うには限界があるじゃないですか。人と人の相性もあります。どんなに実力が優れた人間でも、見る人が変われば下らないと笑われたりします。

イナギャラは、そのあたりがとても巧妙だったと思います。悩んでいる人に一番寄り添える人間がカバーを出していたりします。

そんな仲間と共に過ごした後、イナギャラのメンバーは各々の生活に帰っていきます。サッカーはこれきり、という人もいれば、サッカーまだ続けるよ、という人もいます。

これもまた良い!!

イナギャラは他のシリーズより「キャラを際立たせる」という点では本当に特出していると思っています。皆が同じ考え方をしない、選ぶ道はひとつじゃない、助ける人はひとりじゃない。

それでもみんな前を向いていく。出来ないと笑われたことも諦めずに向かっていく。

 

長くなりましたが、イナズマイレブンGOギャラクシーの面白さは、色んなジャンルから優れた人間を集めることによって、個性豊かなストーリーが展開されるということなのではないでしょうか。

そして、優れているというのは、才能があることじゃない。強いて言うなら、努力をする才能がある人達が優れていると言える。

そんな熱い物語こそ、わたしが一番好きなイナズマイレブンです。

5月 言えない苦悩

初めから、本能的に「合わない」と感じていたのではないかと、今は考えたりします。

 

仕事内容自体は、苦ではありませんでした。電話のやり方にあまり慣れていなかったくらいで、そこに不満はありません。

お昼は直々に教えてくれる上司と、同じ会社から派遣されてる先輩とランチに行っていました。面倒だとは思いませんでしたし、むしろ一緒にごはんを食べるのは好きな人間だったので。

 

「フレンドリーで優しい職場」と聞いていましたが、その通りでした。お仕事中、特に問い合わせがなければ、日常のことだったり、趣味のことだったりを話したりして、和やかな雰囲気は流れていたと思います。

ただ、その雰囲気は、6月頃になってようやく訪れました。

5月、わたしは、その職場の一番の繁忙期に入ってきてしまったのです。2年に1度、2ヶ月もないくらいの、一番忙しい時期です。

わたしはそこで扱うソフトの勉強をしていて、「分からないところがあったら何でも聞いて」と直属の上司に言われていました。よくある流れではないかと思います。

しかし、その繁忙期の様子を横目で見ていて、わたしは腰が引けてしまいました。上司のデスクはすぐ横にありますが、デスクトップPCで顔もよく見えません。何をやっているか分からないけど、忙しそうに見えます。

話しかけたら電話が来ました。逆に、雑用を頼まれてしまいました。

そんな生活が二週間。「不満はない」と思っていました。社会人とはこれくらい忙しいものなんだなあ、と感じていたくらいです。

 

けれど、ひとつ、この時点で致命的な事が生まれてしまいました。上司に教えてもらいたくてもなかなか言えなくなってしまったのです。

わたしは昔から考え過ぎる悪いくせがありました。「ここで話しかけても良いものか」「ここで話しかけても迷惑にはならないものか」「暇そうかどうか、大丈夫か」ありとあらゆる心配がどんどん募っていき、頭がオーバーヒートしそうになっていました。

傍から見たらただただ固まって、何もしてない人です。

怒られた訳ではありません。「ちょっと待ってね、これが終わったらね」と言われて自分の事を後回しにされていただけです。……けれど、その時、わたしは「今忙しかったんだな、自分の配慮が足りなかったな」と思ってしまったのです。

配慮を考えて考えて話しかけられなくなってしまっては、本末転倒も良い所でした。

5月の終わり、何回か「大丈夫?困ったら言ってね」と念押しをされました。わたしは「すみません」と謝ることしか出来ませんでした。オーバーヒートして固まってる様子を見て話しかけられたのかと思いますが、ここまで来るとタイミングのことを考えすぎて勉強にも身が入りません。

いかんせん隣の人の顔が分からないというのが、わたしにとってはずっと、これからも苦しめられました。

 

当時のわたしは、教えてくれる人に迷惑をかけることは悪だと考えていました。迷惑をかけないように、相手に気を遣わせないように、こちらが気を遣わなくてはと、必死になっていました。

わたしに勉強を教えてくれる当時の上司は、わたしに対してとても気をつかってくださっていました。それが手に取るように分かるので、かえって辛くなっていました。

この時点で悪循環は始まっているのですが、それに気付かぬまま、6月を迎えることになります。

4月

入社式、初日、至って順調でした。

同期との仲も良好で、上司とも程々の距離を保って接し、1ヶ月に1度の勉強会にも精力的に参加していました。

今でもよくお世話になる主任さんに、勉強会でこう言われたのを覚えてます。

 

「好母さんは文系だけど、この業種向いてないとかは全然ない。長いこと人に教えてきてて、ダメな人はもう駆け出しの今の時点でダメだって分かるけど、好母さんは大丈夫だよ。一年間頑張ろう」

 

これ、めちゃくちゃ元気出ました。と言うのも、この褒め言葉、新社会人として不安だった私からしたら完璧だったんですよ。

「ちゃんとやっていけるのか」という漠然とした不安に、向こうの長い経験で体感したことを語ってくれた上で「大丈夫」と言ってくれる、この頼もしさったらないですよ!しかも内心思うだけでなく、こちらにしっかり伝えてくれる。上記は省略してますけど、実際はもっとしっかり説明してくれて、良い人だと感動しました。

とにかく不安だった私は、周りの「大丈夫大丈夫」「好母さん、文系だけどいけると思うよ」という言葉に支えられ、ますます自信が付いていきました。

 

ここでちょっと誤算が。弊社、詳しく言うのは避けますが、客先でのお仕事が主だったのです。入るまで知りませんでした。今就活してる皆、企業研究はしっかりやろう。

 

今いる職場で仕事をしない、ということで更に不安がありましたが、そんな不安になっている暇もなく。

なんと客先でのお仕事依頼が、好母ひおりに。

 

会社に入って二週間経たず、私は、業種の勉強をする間もなく、面接の練習に時間を割くことになりました。

理系の同期を差し置いて、自分が仕事を一番に貰ってしまいました。

とても驚き戸惑いましたが、これはチャンスだ、と私は意気込みました。これで頑張ってお仕事をこなして、同期に追い付いていくぞと、やる気に満ち溢れていました。

幸運にもお仕事内容は、電話対応が主でした。まだ勉強が追いついてない身でも、最低限やることは出来るだろうと喜んでいました。

 

面接は、綿密に重ねた練習の甲斐もあり、滞りなく行われました。緊張したものの、育まれていた自信のおかげもあり、しっかりと受け答えする事が出来ました。

4月の終わり、正式にお仕事が決まり、私はGW明けから新しい所に行くことになりました。

私はとにかくドキドキしながらGWを過ごします。

あの駅、どうやって行くっけな、調べとこ。初めてでも大丈夫だって言ってたけど、緊張するなあ。社会人なんだから、しっかりお仕事しないと。

 

そんな事を思っていたGWの中日くらいでした。

休みの日だというのに、主任さんから電話が。何か私やらかしたっけ!?と思いながらも、慌てて電話に出ました。

主任さんは至って冷静でした。もしもし、休みなのにすみません、と言ってきたので、はい、と返しました。

 

「急な話なんですけど、Sさんが亡くなりました。取り急ぎお伝えしておきます」

 

え?と思った以外、この時の記憶、あまりありません。

好母さん以外の新人の連絡先知らないから広めておいて、と言われたのは覚えています。

電話を切ってから、しばらく呆然としていました。入社するまでにマンツーマンで教えて貰った記憶がふわふわしていました。

泣きもしませんでしたし、悲しみでご飯が喉を……という事も一切ありませんでした。Sさん亡くなったんだって、と家族に話す時も、自分は冷静っぽかったと記憶しています。

 

ただ、お世話になったから、1回くらい手を合わせておきたかったなとぼんやり考えていました。

この会社で働くきっかけになった人が、ずっと自分の上司のままでいるとは思っていませんでした。異動もあるかもしれない、退職もあるかもしれない。その辺りは覚悟の上でした。

でも、まさか死んでしまうとはまったく、考えてもいませんでした。会社で思いを馳せようにもGW明けからは新しい環境です。

 

気を取り直して、Sさんが最後に送り出してくれたんだから、新しいところで仕事を頑張ろう、と思いました。

……今思うと、これがいけませんでした。頑張ろうが強くなりすぎたと思います。亡くなったのは偶然であって、それで片意地になる必要は何もありません。

そして何より、困った時に帰る場所がなくなってしまいました。そんな状態のまま、私は5月のGW明けを迎え、面接の時Sさんと二人で歩いた道を、ひとりで向かうことになりました。

就活の時期

私は、就活を始めるのがものすごく遅かったです。というか、興味が沸きませんでした。今でも学生さんと話をする機会がありますが、企業研究とかしてる子を見ると、素直にすごいなあと感心します。

就活当時、私は夏くらいにまともに腰を上げました。

私は文字を書くのは好きだったので、友人のエントリーシートを書く手伝いもよくしていましたが、自分の就活はギリギリまでサッパリでした。今思えば馬鹿だなあと思います。心底。あいつの自己アピール考えてスカイプでアドバイスしてる暇があったらお前の自己アピールを聞け、一年半前の私。

 

面接は、最初は苦手でした。

知らない人に自分をアピールする、という感覚が、まったく掴めませんでした。私は五社くらい落ちて六社目でゴールインでしたが、そのうちの二社は完全にしどろもどろでした。よくあるコミュ障のあれです。

自信が付いたのは、小説を書くのが得意、とエントリーシートに書き始めた時からです。人間とは不思議なもので、流石に人生を捧げた執筆活動をアピールすると、面接する時に自信が付きました。好きなものってアピールして良いんだ、と思ったのを覚えています。結構当たり前のことを忘れていたみたいです。

小説のことを書けば良いじゃん、とアドバイスしてくれたツイッターの友には、今も頭が上がらないです。ありがとう。

 

そうして入った御社。まったく知らない、研究もしてない、バリバリ文系だったのにバリバリ理系の職種の会社でした。

今でも覚えています。面接をしてくれたのは、恰幅が良くてお相撲さんみたいな上司でした。面接の時、文系の自分にもチャンスはあると言ってくれました(他の理系の会社は君には関係ないねと軒並みスルーだった)。

この上司の下だったら働けるかもしれない、と思いました。私は給料も休みもあんまり考えてなくて、会社の雰囲気と人の雰囲気を一番大事にしていました。今でもこの会社に入ったことに悔いはありません。

11月、ギリギリ内定を貰えました。あまりにもギリギリだったので、内定式にも出ていません。同期と初めて顔を合わせたのは、ちょくちょく開催された会社の勉強会でした。

 

自信を持っていた私は、にこやかに堂々と話すことが出来たので、そのお相撲さんみたいな上司(以下Sさん)にコミュニケーション能力を買われた……らしいです。今では実感が沸きませんが、Sさんの目にはそう映ったみたいです。

私は内定を貰い、すぐに勉強会に出ました。同期が理系だったので、私はSさんとマンツーマンであれやこれやと知識を教わりました。

Sさんは真面目だけどもひょうきんな人でもあったので、ちょくちょく話が脱線しては、関係ない話で一時間潰れることはザラにありました。私はSさんの話が結構好きだったので、勉強会が終わって同期がさっさと帰る中、Sさんの話に付き合っていたりもしました。今思えば、そういうところが買われたのかも。

 

社会人になるにあたり、不安はありました。親からは「もう社会人になるんだから、あんたもしっかりしなさい」と口を酸っぱくして言われました。

この時は、しっかり頑張ろう、社会人なんだから、と自分に言い聞かせ、暗示をかけていました。新しい環境、新しい勉強、数式や英語が飛び交う業種にまずは慣れようと。

今思うと。もう少し肩から力を抜けば良かった、と感じます。そして、しっかり頑張ることは、失敗をしないことではないのだと、当時の自分に言いたいです。

失敗しても良いし、良く見られなくたって良いから、とりあえず隣の人に話しかける勇気を持て。他人のことは考えすぎるな。

今ならそう声をかけるだろうなあ。暗示をかけてたって、何も進みはしないんだから。