次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

浮気は世界の終わりじゃない。

わたしが彼氏さんと付き合って数時間後、当時のわたしは「結婚する気ってあります?」のほかに、もうひとつ大きなことを言っている。「浮気、しても良いですよ」だ。今日はその話をします。

「浮気」というワードで週刊誌や番組がひとつ出来てしまうほど、浮気という言葉は、たびたび世間を賑わせる。それは大抵、「浮気するなんて、サイテー!」という意味合いで取られ、報道されている。そのせいで離婚になったりする。
それはそれで、そういう現象として、わたしはふーんで右から左に通している。何も有名人の誰々が浮気したからといって世界が滅ぶわけでもないので、わたしは特に何かを思うことなく聞き流している。結局のところ、ひとつの家庭の事情ですしね。


でも、まず誤解を招かないように初めに言っておくと、彼氏さんに浮気をされたら、わたしはまず間違いなくさみしい想いをすると断言できます。隣にいないさみしさを抱えるのは、間違いない。だって、彼氏さんのことが好きなんですから。


逆に言えば、それだけの話です。浮気って、なんだかんだで、それだけの話な気がするんです。
彼氏さんが「今日は、仕事関係に集中したいから」と言うときや、「ちょっと、実家に帰らないといけないから」と言うときと、「ちょっと、浮気してくる」というのは、実はそんなに変わらないような気がするんです。つまるところ、「ちょっと、ひおりの知らないところに、ひとりで遊びに行ってくる」と同じではないかと。


わたしは「浮気、しても良いですよ」の前に、「彼氏さんが何かやりたいことがあったら、それに集中してくださいね」とも言いました。
彼には彼の意思があって、やりたいことがあって、その上でわたしを好きになってくれて、そこに惹かれて、わたしは彼とお付き合いをするに至りました。
わたしは、お付き合いをすると決めた時に、「彼の一番の存在になりたい」とは思いませんでした。彼氏さんがわたしを好きになってくれたのもすごく嬉しいし、この気持ちを忘れないようにしようと強く深く思ったけれど、一番に感じたことはそれではなかった。


「この人の隣にいたい」。わたしが今もお付き合いをする時も思っていることは、その一点です。
そのためなら、わたしは努力を惜しまず、自分が良いと思う自分に近づいていこうと、わたしの中で強く誓いました。最近始めた料理も、彼氏さんの喜ぶ顔が好きで作っています。おいしいご飯が待っている場所に人は帰るもの。彼氏さんにおいしいご飯をつくって、彼氏さんのやりたいことを応援する彼女になろうと、その時から決めました。


だからこそ、「浮気、しても良いですよ」と言ったのです。彼氏さんのやりたいことを妨げる彼女にだけはなりたくない、でも彼氏さんが良いと思ってくれる彼女になる努力は止めないでいよう。自分が自分の思う良い彼女になれば、「しても良い」としたとしても、違う誰かと本気の恋をする気なんて起きないだろうから。
これは、彼氏さんの自由を約束するようで、実はわたし自身に対しての誓いでもありました。わたしはあなたの一番になりたいんじゃなくて、あなたの傍でこれから一番長い時間を過ごせたらそれで良いのだと。少しくらい遊びたい時だってあると思うから、わたしは自分をもっと良い自分に成長させて、帰りを待っていると。
こう思えるのも、彼氏さんがどれだけ本気でわたしのことが好きなのか、よく分かるからでしょうね。向こうの気持ちが伝わったからこそ、わたしはお付き合いしようと思えましたから。


では最後に、「浮気、しても良いですよ」と言ったときの彼氏さんとの会話を書いて、今回は終わりです。
ここまで読んでいただきありがとうございます。


「そういえば、彼氏さん、浮気しても良いですよ」
「え?……どうしてそう思うの?」
「彼氏さんのやりたいことの邪魔はしたくないなって思って……」
「ひおりちゃんは、何とも思わない?」
「それは、めちゃくちゃ寂しいし、悲しくなると思いますけど……」
「じゃあしないよ。ひおりちゃんが寂しくなるならしない」

書きたかったものは、「キャラクターが好き」という気持ちじゃない

今回は、自分が書いた同人誌の話をする。本来、物語に対して長々と思うことを書くことはそんなにないんだけど(同人誌ともなれば、尚更で……)、今回は並々ならぬ思いを込めて書いたところもあるのと、四章公開間際なのもあり、ここに筆を取ることにした。


書いた話は、これです。
https://booth.pm/ja/items/1106521
https://booth.pm/ja/items/1245973
https://booth.pm/ja/items/1348618


上中下構成の、300ページを超える物語になっています。いわゆる「薄い本」と言われる同人誌にしては、わりと長めなお話になったと思う。これでも、結構大味にしたところもあるんだけどね。どのページを抜いても成立しないような、濃い話に仕上がりました。


ここからはあくまでわたしの創作に対する姿勢やスタンスが色濃く出るので、いわゆる※個人の感想です。として読んでくださいね。念のため。


わたしはこのブログで、何回かに分けて、インド兄弟のことを考えてきました。彼らの魅力もそうですし、彼らの悪いところ、欠点についてもじっくりと考えて、それも含めて彼らの魅力だとしてきました。
キャラクターというものを書くことにおいて、そのすべてを書ききるには、キャラクターの欠点に目を背け、盲目的ではいけないとわたしは考えています。影から目を逸らしていては、光を書ききることも出来ません。これは、数年前から、物語というものを書くときに意識していることです。
わたしが書きたいのは「キャラクターそのもの」であって、「わたしが思う、キャラクターの好きなところ」ではありませんでした。300ページという長い物語を書くとき、その存在の全部を伝え、その上でキャラクターの可能性というものを考え、書ききりたいという気持ちで同人誌に取り掛かっていました。
これをするのに必要なものは、冷静な分析によるキャラクターの情報であって、「こうなってほしい」という書き手の感情ではありませんでした。「こうなってほしい」が含まれてしまうと、そのキャラクターが秘めている最大級の情熱は書けないだろうと考えたからです。「こうなってほしい」からキャラクターを解き放つことで、初めてそのキャラクターが胸に秘めた何かが出てくるだろうと考えたからです。最大級の情熱を書くには、書き手は最大級に冷静でいなくてはならないのですから。
多分、これは、「そのキャラクターの好きなところを書く」というスタンスの方とは一線を画する考え方だと思います。けれど、わたしは一次創作のときからそういう考えでやっていますので、変えるつもりはまずありません。俺の料理に対するこだわりというやつです。「オウ、俺ぁな、ナトリウム塩は使わねえんだよ、たとえ海水が干からびても天然塩しか使わねえのよ」というやつです。


さて、何故こんなことを書いたのかというと、ブログで情報をまとめているとき、わたしはこんなことを思ったからです。
「なんでわたしはアルジュナさんが一方的にカルナさんを憎んでるって思い込んでたんだろうなあ」
インド兄弟をかんがえるタグから記事を読んでいただくと分かりやすいのですが、わたしは最初、カルナさんはアルジュナさんに何かの強い感情を抱いているとは思っていませんでした。紐解くにつれてそうではないことを知りましたが、わたしは「何故そう思い込んでたのか」に目を向けました。思い込むにしたって、そう感じるからくりがどこかに落ちているはずだと。
辿り着いたのは、アルジュナさんというひとの「強さ」でした。彼の、己に対する強い思い、そして語られる言葉が、読む人にカルナさんへの強い想いを印象付けていたのです。これは一種の「カリスマ」にも似ていると思います。英雄たらん人物には必要不可欠なものです。
強い思いは、時に人を見る目すら錯覚させる。これは、そう感じ始めた時に観た舞台「オセロー」でも強く感じたことです。どんな真実がすぐそこに転がっていようと、強すぎる光は影すらも消してしまう。
わたしはそれにがーんとつよーく感化され、今回の話を書きました。今回の話が長くなっているのも、その光と影を明かすまでの時間が必要だったからです。


わたしはこの本の終わり、こんなことを書きました。
「ぜひ、この物語は、2回読んでください」。それしか書きませんでしたが、わたしはこの話で、彼らの良さや欠点、未来への可能性だけでなく、そういう「強すぎて、みえないもの」を書きたかったのです。
この視点は、キャラクターの良さを考える創作の仕方では、決して見えないものだったと思います。こういうことがあるから、考えることはやめられないのだろうなあ。
もし四章でアルジュナさんが出てきたら、そんなところも注目してみてほしいなと、一介のファンは考えるのでした。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
こだわりは、今までどこにも書いてなかったものを引き寄せる。

料理に入った物語

ちょっと時間が空いてしまったけど、引き続き、料理の話をする。もう少しお付きあいくださいね。

先日から胃腸風邪を患いまして、ようやく調子が戻りつつある。かれこれ一週間くらい、自分の「体調の悪さ」というものと向き合うことになった。調子が良くなっても体力の低下が激しいので、完全回復するにはまだ時間がかかりそうだ。ブログの更新が止まってたのも、そういうことです。


体調を崩してる間、訳あって3日間ほど彼氏さんの家にお世話になった。
購入したキッチンツールを使って、わたしが動けない朝には、彼氏さんがおかゆを作ってくれた。わたしが買ったレミパンプラスの中にお米と水を入れて、塩としょうゆで味付けをしたシンプルなおかゆ。普通に炊いたお米すら受け付けなかった身体に、とても優しかった。
うまく話もできないくらいお腹が痛かったので、あついおかゆをふうふうするのも口に運ぶのも、彼氏さんがやってくれた。もちろん、レミパンプラスの片付けも、皿の片付けも、彼氏さんがやってくれた。
昼は少しだけ元気になったので、休み休み、にんにくとツナを入れたおかゆを作った。にんにくは「くさいたべもの」と思われがちだけど、元気を出すなら一番の薬と言えるくらいの健康食品なんですよね。実際、このにんにく粥がものすごい身体に効いてくれて、しかもにんにくのダシがお米に染みてすごくおいしかった。
もう少し元気になったので、夕飯はトマトの牛煮込みとオニオングラタンスープを作った。途中ふらついたときは簡単な炒め作業を交代しつつ、どうにかできた夕飯を、彼氏さんは大喜びで食べていた。トマト煮込みをすごく気に入ったらしい。


お腹がとにかく不調だったけれど、彼氏さんの家に居る間、そうやって料理をするのが楽しかった。量は食べれなくても味は覚えてるし、何より普段お米を炊く以外台所に立たない彼が、自分のためにおかゆを作ってくれたのがとにかく嬉しかったのだ。
料理は毎日の消費活動ではなく、毎日のおいしいの積み重ねなのだなあと、改めて感じるところだった。おいしいご飯を作れるというのは、嬉しくて、楽しい。買ってくるご飯にわたしたちの物語はないけれど、作ったご飯にはわたしたちの物語がたくさん入っている。
使っているレミパンプラスとクロの包丁も、まだ浅いけれど、少しずつわたしたちの物語が染み付いてきている。「安くてすぐに買い替えるものよりも、高くてずっと使えるものが良い」という気持ちでその二つのキッチンツールを買ったけれど、大正解の買い物をした。満足したので、ナイフなハサミも買ってみた。remyのサイトに売っているものを制覇してしまいそうな勢いだ。
キッチンツールの話だけじゃなくて、調味料の話とかもしたいね。それはまた今度にしよう。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
使っていてたのしいものを使うことは、使い勝手がよいものを使うことよりも、時には大事ですよね。

ぶきっちょさんVS料理

最近、料理を知った。料理という存在は知っていたけれど、最近、するようになってきた。家庭科の授業でしかまともに包丁を握ったことがなかったけれど、あることをきっかけに、料理をしても良いと思えるようになったのだ。わたしは昔から不器用でそそっかしくて、ミス平均点だけど家庭科は2を取るくらい、それはもうドジを踏みまくった。高校を卒業するくらいまで、危ないから台所に立つなと言われていた。家庭科の授業でも、包丁を握るのは数分以下で、ほとんど皿洗いをしていたような気がする。
料理をするひとは、中身もしっかりしていて、手先が器用じゃないと出来ないものだと本気で思っていた。「(不器用な)男だって、料理するよ」という番組や本もあったけど、クッキングパパを読んで育ったわたしにとって、「手先が器用な男」のものだったんだろうと考えていた。
ずっと実家暮らしなので、黙って座ってても大抵母親が料理をして、出してくれる。それはとてもありがたいことなんだけど、あまりにもやらなさすぎて、このままで良いのかなあ、でも自分じゃなあ、とやきもきしていたのは確かだった。
片思いをしていた男の子にから揚げ弁当を作ろうとして、母親と大喧嘩もした。そのせいで、料理に良い思い出はすっかりなくなってしまった。


そんなある日、精神的な病にかかり、休職中に別の友人のおうちでお菓子作りを経験した。その時はクッキーを作り、お手伝いもあって、うまくいった。バターと小麦粉と砂糖がひとつの生地になっていくのが、魔法のようで面白かった。混ぜてこねるだけであんなに色鮮やかに固まっていくものなのかと、あじをしめた。
少しずつお菓子を作るようになった。でも、お菓子と料理は、また別物だろう。そんな敷居の高さのようなものを感じていたわたしの偏見を、あるひとりのひとが、まるっとくつがえしてくれたのだ。


某仕掛けた企画に挑戦する人をモニターで見守る番組に出てた、平野レミさんである。料理のひとと思われがちだけど、あの人、もともとはシャンソン歌手である。声がはって大きいのも頷けますよね。
その時レミさんは、ハンバーグを作った。「こんなものね、こうすればいいのよ!」と、大胆に包丁を叩きつけ、大胆にまとめ、大胆に焼いた。でも不思議ととてもおいしそうだった。
番組が終わった後、何気なく調べたら、レミさんのサイトを見つけた。作ったハンバーグを始めとしたレシピが並んでいて、その時、こう思った。


あの大胆さでできるなら、不器用な自分にも出来るのかも。


何より、レミさんは、楽しそうに料理をする。弾けるような笑顔でいつも何かを作る。クッキングパパにも毎巻載っていた、「料理って楽しいんですよ-!」を体現するようなお人だ。今思えば、料理って良い物なのかも、と思い直すきっかけにもなったんだろう。


結果から言うとハンバーグは3回作って2回失敗したのだけど、まあ、今度またリベンジします。
そして、その第1回は、信頼できるフォロワーさんが家に来たときに食べて貰った。わりと焦がして形も崩れたけど、おいしいよー、とご飯までしっかり食べてくれたことを覚えている。
それが何ともいえずに嬉しかった。料理って良いな、と、じんわりとした気持ちを胸に感じ取った。


今、平野レミさんに感謝の意を込めて、プラス、この人が考えたものなら信用できる!と、「レミパンプラス」と「クロの包丁」を残業代はたいて購入し、彼氏さんの家に置いてもらっている。
豚眠菜園とお味噌汁を彼氏さんと一緒につくって、豆腐を床に落としたりしたけど楽しい一時になった。
不器用でも、へたでも、楽しいしおいしかったから、良いよね。


まさより楽しさで惹かれるのは、とても良いことだと、今なら思えます。ありがとう、レミさん。かさなるスチーマーとナイフなハサミも購入を検討しよう。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
次は肉じゃがを作ろうかな、と思える幸せもあるんですね。

決断の時、必要なもの

彼氏さんとの間で、住まいを変えようという話が出ている。わたしは実家暮らしで、彼はひとり暮らし。わたしは家を出たくて、彼は今の部屋の収納のなさが不満らしい。引っ越しを決めるきっかけとしてはぴったりだった。とりあえず、付き合い始めから半年経ったら一緒に暮らそうという話で落ち着いた。時期としては10月くらいになる。少し肌寒くなってくる頃だろうか。


さて、これを読んで、あなたは今何を思うだろう。
「半年は、はやい」と思うだろうか。「半年は、なかなかだ」と思うだろうか。「10月か、家を決めるには良い時期だ」と思うだろうか。「悪い時期だ」と思うだろうか。


ネットの海が広がっている時代なので、「同棲 時期」で検索すれば、同棲するにはいつぐらいがちょうど良くて、いつぐらいはタイミングが悪いかが、山ほど出てくる。それはもうわんさか検索結果に並んでいる。
そういうのは、大抵同じ事が書いてある。いわゆる「平均」だ。


ここからが、今日の本題です。
わたしは、そういう無数の意見や平均の言葉は、思いの外、わたしには関係ないのだと思っている。というより、きっとそうなのだろうと、最近実感した。


たとえば、無数の意見は、わたしや彼ではないので、二人がどう過ごしているかを知らない。
昨日、まったく料理をしない彼の部屋に、フライパンと包丁、アルミホイルにキッチンペーパー、わたしの分の食器や収納ラック、醤油や料理酒の調味料を置かせてもらった。その後、二人で料理をした。献立はわたしが考えて、作業は彼に手伝ってもらった。その時に出たごみは、彼が捨ててくれた。わたしも彼も、まったく不満そうな顔はしていなかった。手際は悪かったけど、それ以上に楽しかった。
さっきの言葉だけだと、そういう事情は知らない。
一緒に暮らす準備のようなものを、既にしている。毎週会うときに、その練習をしようと約束している。昨日に関してはニトリとスーパーの往復しかしていなかったので、デートらしいデートはしていない。でも、とても楽しかった。
そういう事情も、分からない。口にはしていないけれど、二人で暮らすということを、彼もわたしもすでに前から考えていたのだと思う。恋愛とは違う信頼のようなものが、すでに生まれつつあったのだと思う。


そして、これは話す人に毎回驚かれるのだけれど、付き合ってその日に、というか数時間後に、わたしは彼に「結婚する気ってあります?」と確認をしている。彼の返事は、「あるけど、お金貯めないと」との一言だった。わりとあっさり、将来はする気持ちがあることを教えてくれた。
わたしは、彼氏とは、将来結婚する気持ちがある、時間をかけて愛せるような人のことを言うのだと思っていたけど、周りの人に話すと口をそろえて「その質問、早すぎない!?」とつっこまれた。「付き合ってから、決めるんじゃないの!?」と言われた。
わたしは、わたしが定期を落としたり、帽子を忘れた時に一生懸命探してくれて、遠くても一緒に取りに戻って、嫌な顔ひとつせずに「僕が一緒にいるときはまた被ってきてもいいよ」と言ってくれたその時から、この人とは付き合っても良いと決めていた。つまりそういうことだ。
まだ、その直感が間違っていたとは、一度たりとも思ったことはない。


「無数の意見」も、「平均」も、わたしのそんな思いや決意は知るよしもない。もっと言うと、その情報は、わたしや彼のことをほとんど何も知らないのだ。
知っている自分と、知らない自分以外。何かを決断するとき、何を信じれば良いのかなんて、一目瞭然のような気もするのにね。
自分以外の何かを頼りにしてものを決めるのは簡単だ。だって、間違っていたときに、自分以外のせいにできるんだもの。あなたが間違っていたと責めることができるんだもの。
だけどその分、後悔は絶対大きくなる。「あの時、自分を信じていれば」と後悔するなら、最初から自分を信じたいと思う。頼るものがあるのならば、その頼るものを頼ったのは自分なのだと、自分を信じたい。


住まいを変えるという大きな決断ですが、案外あっさりと決められたのは、彼と、それ以上にわたし自身が抱いている彼への信頼のおかげなんだろうなあと改めて思います。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
「覚悟」には、「信じられる自分」が必要だ。

服は、自分自身の内面もまとっている

※今回は中の人の写真が3枚あります。ツイッターには載せたことあるものです。


自分で言うのもなんだが、自分は、昔の自分に比べて堂々と人前に立てるようになった自信がある。その中のひとつに、自分が好きな服を着れるようになった、ということがある。これは好母ひおりにとって、かなり大事だと思っている。
昔の自分は、好きな服というものを着たことはなかった。着るように言われた服を着ていた。大学生くらいまではそうだったと思う。


「あんたは、足が短いからスカートが似合わない」と、母親によく言われていた。「だからズボンをはいて、太ってるから、お尻が隠れる服を着なさい」と言われ、ジーンズとだぼっとした服しか着ていなかった。

当時がこんな感じです。

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今見ると、結構ださいです。正直ださい。小学二年生とかなら分かるけど、高校三年生が着る服ではなかったなあと思う。でも、お尻が隠れる服を着て、ズボンは履いていた。ミッションはクリアしていた。

 

変化があったのは大学生のとき。生まれて初めて、同人誌即売会にサークル参加することになったときだった。

当時一番信頼出来るフォロワーの子と一緒に、服を買いに行った。どんな服が良いかと見ていたら、その子はワンピースを選んでくれた。タイトな感じじゃなくて、ひらりとしたスカートだった。

わたしはその時のことをそこまで覚えてないけど、その子曰く、わたしはめちゃくちゃびっくりしてたらしい。

「え!?わたしがスカート履いて良いの!?」

そんなことを言ってたのはなんとなく覚えてる。

毎日ズボンを履いてたけど、スカートに憧れはあった。ひらひらとひらめくスカートがかわいくて、わたしもあんな服を着れたらなあと思っていた。シンデレラが舞踏会に憧れるようなもので、でも自分の目の前に魔法使いは現れないとばかり思っていた。

それが、なんととても身近に魔法使いはいたのであった。でも、最初着るとき、とても怖かった。シンデレラは喜び勇んで舞踏会に行けなかった。

「でも、自分にスカートは似合わないし、笑われたらどうしよう」

そんな不安があった。自分がスカートを履いたら全人類に笑われ、ぜんぜん似合わないと指をさされると、その時は本気で思っていた。聞こえないはずの老若男女の笑い声が頭の裏でこだましていた。

おそるおそる試着して、おそるおそる試着室を出た。見せる相手が信頼出来る魔法使いじゃなかったら、試着すらしないで諦めていただろうと思う。

(試着じゃなくて、魔法使いがわたしの足に合わせてくれたような気もするけど、詳しく覚えてない)

 

「かわいいよ!」

魔法使いはそう言ってくれた。

似合うよ、かわいいよ、と何回も言ってくれた。その時の喜びは忘れられない。似合わないはずのスカートを履いたわたしは、かわいいらしい。

その後、家族にその姿を見せに行ったら、もちろん笑われた。なんて格好してるの、とけらけら笑われたけど、その横で魔法使いが「そんなことないですけど」と言ってくれて、自信はすぼまずに済んだ。

憧れていた服を着るのに、用意しなくてはいけないのは服だけじゃない。かわいい、似合ってる、という、誰かからの言葉だった。

 

数年後、また違う魔法使いから、こんなことも言われた。

「髪の毛染めたらかわいいんじゃない?ピンクブラウンとか似合いそう」

好母ひおりはピンクが好きな生き物だった。ピンクブラウンという好きな色が似合いそうと言われて嬉しかったわたしは、喜んで髪の毛を染めた。

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ぎこちないピースとぎこちない笑みしか出来なかったわたしは、段々と、少しずつ、好きなものを身にまとうことで表情が柔らかくなっていた。今もまだ若干ぎこちないけど。

写真に映るのが嫌いだった。できればフレームに入りたくなかった。綺麗でもかわいくもない自分が写真を撮られることは、恥ずかしいことだと思っていた。

今、少しずつ、撮られることが記念として嬉しくなっている。

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一番最近のわたし。随分と印象が変わったように思える。最初の写真から5年後です。

着たいと思った服は着るに限ると言いたいですが、それを似合うと言ってくれる人がいてこそ、自分に自信が持てるものですよね。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

白いスカートを履くのが昔からの憧れだったけど、叶うものなんだなあ。

 

見えないから、美しい

数日前、お花と蛍を見に行った。

「こんな時期に蛍?」と思われるかもしれないけれど(実際、わたしも目の当たりにするまではちょっと疑っていた)、これがもう、川辺に何十匹もいたのだから驚きだった。普段はきれいなお花がずらりと並んだり、ひとつにまとまって咲いているテーマパークが、そのときばかりは「蛍の光」が主役になっていた。
昼の間は華やかな色合いが目を癒してくれていたけれど、夜の蛍は星の光の瞬きによく似ていて、淡くて、かと思ったら強くて、ちろちろと静かに流れる川の水面をほのかに照らしていた。それがもう美しかった。言って伝わるか分からないけれど、光が生きていたのだよね。電飾のような無機質さはなく、光に暖かさが宿っていた。
電気がなくても水面が見えたことに、改めて生き物のすごさを感じる。川辺のごつごつした地面に座り込んでいたので結構足が痛かったけど、それよりも目の前に広がる一面の光に、心を奪われていた。
しばらく地面にとまってじっとしていた蛍は、やがてふわりと舞い上がって、動き出す。彼らは訓練されている訳じゃないから、たまに動く。たまに木から降りる。たまにぽとっと落ちる。じっと時間が止まってるような錯覚を起こし始めたくらいに、動く。そういうところがまた良かった。


そのとき、ぱあっと目の前が不自然に明るくなった。蛍の光じゃないものが、全体を照らそうとした。眩しくて目を細めながら周りを見ると、たぶん、誰かがスマホの画面を川辺に当てたのだと思う。明るくなった目の前には、今まで見えてなかった岩肌や突き出た石、そして小さな蛍が露わになった。
川辺に瞬く星の光は、いきなり川辺に集まる虫の集合体になった。幻想が現実になった瞬間だった。
もちろん、目の前の暗闇で瞬くのは蛍だと、わたしたちは知って見ている。けれど、その一瞬で、わたしたちは「現実」に戻される。ぴかぴかと美しかったものは、ごつごつした何かに支配される。眩い電気に照らされて、蛍の光は消されていた。


ああ、隠れていたからこそ美しかったのだな、と実感した。「蛍」の姿が見えないからこそ、「蛍の光」は美しかったのだ。見えないからこその想像が、わたしの目の前の景色を美しいと思わせていたのだ。
夜の、何も見えない暗闇だから、蛍の生きた光は綺麗だと思えたんだろう。電飾の下だと、それは初めからなかったものになってしまうのか。すべてが明るみに出たら、それは既になかったものになってしまうのか。美しさって、儚いんだなあ。
そんな感傷に浸ったりして、ふわふわ浮いたり着地する蛍をゆっくり30分は楽しみました。たまには水の流れを感じながらゆっくりと過ごすのも良いのですね。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
すべてを露わにすることだけを目的にしたら、美しさを味わう心はなくなってしまいそうだ。