次は戦場で会いましょう

病み備忘録 最初に「はじめに」お読みください

はじめの一歩を踏み出せなかった日

11月の最後。休職が明けるまであと数時間。

ベッドの中で、「とりあえず会社に行こう」「とりあえず会社には行こう」とひたすらに念じていたのを覚えています。自分に目標を言い聞かせていました。

わたしの身体がどんな状態だったのか、詳しくは前々回の「番外」をお読みください。詳しくない状態を言うとなると、10分の1の体力をどうにかコントロールしていたとしか言えません。

体力がないので、出掛けるにも、ものを楽しむにも、寝るのにも、すべて気を遣いました。後半はこれくらい外にいたからもう戻らないとなーと自分の限界をわきまえていました。

しかし、会社に行くとなるとそうはいきません。フルタイム、約8時間、デスクに座っていないといけない(仕事のことはこの時完全に考えていませんでした)。当時のわたしはそこまで考えていたか定かではありませんが、会社に行って上司さんに会おうという目標を定めていました。

 

翌日の朝。異常を感じたのは電車に乗った時です。

人間を間近に感じるだけで、腹の底から吐き気がこみ上げました。揺れではなく、満員電車に満たされた人間の気配に、体力は削られていきます。

揺られながら、あまりにも気持ち悪いので、何回か降りようか迷いました。しかし、きちんと定時に行かなければと、我慢して我慢して我慢して、どうにか会社に到着しました。通勤時間は1時間ほどですが、その間は地獄のような苦しみでした。

女性の長く伸びた髪の毛、男性のスーツ、何もかも、何もかもが、人間をまとっている。自分の近くにある。その事実がひたすらに、何とも形容しがたいことではありますが、気持ち悪く感じたのです。性別年齢、格好、関係ありません。脳が萎んで空っぽになっていく感覚があります。それでも脳は、耐えろ耐えろと怒鳴り、命令を身体に叩き込みました。

 

会社についたとき、上司さんはいませんでした。偶然席を外していたので、わたしはタイムカードだけ押して、近くの椅子に座りました。

燃え尽きた感覚がありました。ああ、来れたんだな、という気持ちはありましたが、達成感も充足感もありません。その事実だけをおぼろげに感じつつ、指先ひとつ動かせず、俯いて座っていました。何も感じませんでした。会社にいるという圧迫感だけを感じていたと記憶しています。

やがて扉が開いて、上司さんが入ってきました。わたしはどうにか首だけを動かして、上司さんの顔を見ることが出来ました。

「あれひおりちゃん、来……うわ」

 

この時のわたしの状態は度々上司さんから聞かされるのですが、曰く、「動物園で檻の隅に丸まって死んでる(ように見える)モルモットみたいだった」らしいです。

これはヤバイ状態だと察したらしく、上司さんも戸惑っていたと思います。

「完全に目が死んでんじゃん……。……よく定時に来れたね」

そのまま始業のチャイムが鳴りましたが、わたしは既に満身創痍です。ちなみに、会社は皆さん出払っているので、フロアには上司さんとわたしの二人しかいませんでした。

「これじゃ何にも出来ないよなあ」

上司さんが言ったのは純然たる事実だったのですが、わたしは非常に動揺しました。「何も出来ない役立たず」という言葉が頭を回ります。傍から見たら座っているだけですが、心は既にズタズタな状態です。

「でもこれ以上休職伸ばせないから、少しずつやっていくしかないか……。今日はもう帰る?」

確か頷いたと思います。この間、ひとことも言葉は発せられませんでした。しゃべる気力はとっくにありませんでした。

「休務届は書け……そうにねーよな。俺が代わりに書いとくから、落ち着いたら帰りな」

そのまま、数十分、そうしていたと思います。上司さんはその間、自分の仕事をしていました。こちらに話し掛けてくることはありませんでしたが、わたしとしてはそちらの方が気が楽だったので良かったです。

30分は経って、ようやく椅子から立ち上がることが出来ました。

「帰る?」

扉に向かうところで声をかけられました。無言の頷きを返します。

「そっか。お疲れ様、気を付けて」

タイムカードを押して、帰ります。時間にして、大体1時間ほどでした。

帰りは電車が空いていたので、まだ何とかなりました。こうして一日目はどうにか終了です。結局、一言も言葉を話せないまま座っていただけで終わってしまいました。

 

「会社に行って上司さんに会う」という目標は達成されたものの、成果としては完全に駄目なやつです。本来なら休職を伸ばすくらいの様子だったとは思いますが、新人なので一ヶ月しか許されませんでした。むしろ、会社を辞めてしばらく時間を置いた方が良いくらいの状態だったかもしれません。

普通どうなのか分かりませんが、上司さんはここで、「少しずつやっていくしかない」という判断をしました。多分この場で「辞めろ」と言われたら、当時のわたしは辞めた方が良いかもしれないと思っていたでしょう。ここから上司さんの言う通り、「少しずつやっていく」ことになります。

一言も話せる状態じゃない新人を目の当たりにしてそう言える上司さんも、今思えばすごいな……と思いつつ。波乱の日々が、ここから始まります。