次は戦場で会いましょう

病み備忘録 最初に「はじめに」お読みください

カルナさんというひとを理解するはなし

※この記事は前回の補足です。

前回の記事はこちら。

https://musicbell17.hatenablog.com/entry/2018/06/25/010841

 

アメリカのカルナさんとてもかわいい。

さて。先日、「アルジュナさんとカルナさんのはなし」と称して、インド兄弟の関係性について説を打ち立てた記事を載せてから、このようなお言葉が届きました。

「アポの沐浴のシーンを読んでください」。

沐浴のシーン……カルナさん好きの人の間ではかなり有名なワンシーンだとは風の噂で聞いていましたが、本当にお恥ずかしながら、アルジュナさんの事がアポに出てきているとはまったく知りませんでした。にわかがバレる。

まずは、そのようなお話を届けてくださった方へ、心より感謝申し上げます。アポはアニメを観て満足していたので、今回のような事がなければ、おそらく知る機会はなかったと思います。思っていたよりもアポに「アルジュナ」の名前が出てきてとても驚きました(後にアルジュナさんを出す伏線だったんだろうか…)。インド兄弟好きとして、カルナさんが好きな人間として、ここにお礼を述べさせていただきます。ありがとうございました。

……本当はCCCもやってからこの記事を書くべきだとは思ったのですが、個人的な事情により、今回はアポを含めたカルナさんとアルジュナさんの関係について、前回の補足という形で書きます。

今回の記事も、「Apocrypha(小説)」「FGO体験クエスアルジュナ&カルナ」「FGO終局」「FGO5章」「エクステラリンク」等から台詞を引用しますので、ご注意ください。

 

結論から言います。前回と、結論は変わりません。「カルナさんは殺したい訳では無い」「インド兄弟は殺し殺される関係とは言い切れない」と、アポを経ても考えが変わることはありませんでした。

ただ、そこに至るまでの過程が少々変化しました。今回はその話をすると共に、カルナさんという人について考察していこうと思います。また長い話になってしまいますが、お付き合いください。

 

アポの沐浴のシーンで、カルナさんはアルジュナさんのことを、「たった一つ己が拘り続けたもの」として名前を挙げています。そして、彼に向けていた感情は嫉みだったのか、嫉み以外の何かだったのか、分からない。誰かを妬む事などなかったカルナさんは、自分の感情に疎かった……とのような事が書いてありました。

アポのカルナさんはそれに加えて、戦士としての本能、高潔なる魂、考え方等についても濃く描写されていたような印象を受けます。戦士と書いてクシャトリヤと読む者としての生き方を貫くカルナさんが好きな身としてはもうニッコニコで読んでいました。5章の「ここに宿命はなく呪いもない」に通ずる描写もあって満足です。

という感想は置いておき。確かに、「拘り続けた者」だという事があると、前回書いた「この関係性はアルジュナさんの一方通行」という言葉は完全に誤りですね。

しかし、わたしはアポを読んでいてひとつの疑問を感じました。

「カルナさんがアルジュナさんに拘り続けたって、FGOのストーリーを読んでてもそんな事全然分からなかったよな……?」

前回の記事を書くにあたり、思いつく限りのカルナさんの言葉を回収しました。それを読み、考え、こうだという自分に納得のいく結論を出しました。その結論の判定はこの際どうでも良いです。

「それでもまったく分からなかった」のです。何度読んでも、何度見直しても、「カルナさんがアルジュナさんに拘っている」と感じ取れるような描写はない。例えそれを前提に読んだとしても、分からないのです。むしろ前回書いた通りアルジュナさんの一方通行に見える。カルナさんはアルジュナさんに対して、戦士としての対抗策は出すけれど、自ら殺し合おうとする気も見えない。

けれど、アポの描写で、確かに存在するのです。「カルナが喜びを見い出せていたのは戦いの場のみ」だと。ありのままの自分でいられる、殺し合いの場が己を昂らせてくれる。

その描写と、アルジュナさんに対する対応が、あまりにも矛盾しているのです。

 

ライターが忘れてしまったのか?メディア展開が多すぎて設定が追い付かなくなってしまったのか?そんな考えが過ぎりました。

――しかし。この矛盾に対する不信感に似た何かは、彼が普通の人間であった場合のそれです。彼が普通の人間であったなら、その可能性もあったでしょう。

 

わたしはこの矛盾こそが、カルナさんというひとの真骨頂を表しているのではないかと考えました。

この矛盾こそが。施しの英雄カルナに対して理解を深める入口になるのではないかと。

順を追って、ひとつずつ紐解いていきたいと思います。彼が、どんなひとなのか。

 

そもそも、ApocryphaFGOの決定的な違いは何でしょうか。

聖杯大戦と人理を救う戦い。多くのマスターとただ一人のマスター。と、いう話ではなく……媒体の話です。

アポは小説。FGOソーシャルゲーム。この際、アポアニメを入れても構いません。この三つの中で、「小説にだけある物」があります。

それは、「第三者による心理描写」です。この中で小説だけが、キャラクター自身の言葉を借りずとも、キャラクターの心を言葉で描く事が出来ます。それがあって、初めてわたしはカルナさんがアルジュナさんを拘り続けたと知る事が出来ました。実際、アポの「拘り続けたもの」は、カルナさんの口から直接出た訳ではありません。

逆に言えばカルナさん自身の心は、カルナさんというひとの葛藤や気持ちは、小説の地の文でないと描けない範囲があるという事です。

実際、アポで、これを裏付けるような興味深い描写があります。

序盤でシロウからルーラーを殺害するように命じられたカルナさん。この命は「ランサーならばマスターの命令に異議を申し立てず従うだろう」と考えての事で、実際カルナさんは諒解したと返事をして、殺害に向かいます。

しかしこの時、カルナさんはこの命令に対して疑念を抱いていました。かつ、何故マスターはそのような命令を下したのか、その理由も考えていたのです。それでも、命令は命令だから、と、カルナさんは忠実にそれを実行します。

この疑念を抱き、理由を考える流れも、カルナさん自身の言葉では語られていません。すべて小説の地の文による物です。

 

さて。

何故カルナさんは、これらを己の言葉で語らないのでしょうか?

疑念を抱いた事も、拘り続けた事も、彼は己の口から出しません。それらがなかったかのように振る舞います。振舞っているように見えます。

これこそが、カルナさんの「一言足りない」の所以なのでしょう。だとしても何故?

答えは簡単です。今まで散々言われてきたことです。彼は「誰かの為に生きる英雄」なのだから、己の事を口に出さないのは、至極当たり前の事なのです。その上で、彼の中では「それが当たり前」になっています。

カルナさん自身、「何故コミュニケーションが苦手なのか気付いていない」のです。

元々コミュニケーションとは、お互いの意思を、意見を通じ合わせるためにあります。しかしカルナさんの人生は、誰かの為に生きる、誰かの力になって散るためのもの。そこに己の意思は必要ない。「だから苦手」なのです。

他人をこれほどまで暴き立てる人が、自分の事にはこれほどまで気付かない。そこが魅力ではありますが、このような生き方をしている以上、仕方ない事なのかもしれませんね。

前回の記事にも書いた通り、カルナさんはカルナさん自身で何も考えていない訳ではありません。しかし、「それを踏まえても」、彼は命令を、願いを、マスターを、守るべきものを優先させるのです。

それが、カルナというひと。そして、これでまた、見えてくるものがあります。

 

前回の記事で、わたしはひとつ、とても大きな、大事な事を考え忘れていました。

終局にて、カルナさんがアルジュナさんに健全な戦士としての戦いを提示したのは事実です。ぐだにアルジュナさんを託していき、「オレの目的など小さなもの」と残していったのも確かな事実です。

わたしはこれに対して、カルナさんは正しく生きようとする者を庇護しようとした、と書きました。しかし今になってみれば、ひとつ大きな矛盾があります(後で修正します)。

「体験クエの時、アルジュナさんは正しく生きようとしていなかった」のです。すべての虚無を抱えて、死んでも同じだと諦めていたアルジュナさんを、カルナさんは己がアルジュナさんの目の前に現れる事で救ったとも言えるでしょう。

 

何故救ったのか?

彼の目的とは、何だったのでしょうか?

カルナさんは、アルジュナさんに「アルジュナ」として生きる道を提示しました。それは何故か?

前回はここを見落としていました。もちろん前回書いた「アルジュナさんの事情を知っていたから」というのもあるかもしれません。

しかし、アルジュナさんはそれをカルナさんに頼んだ訳ではありません。心置き無く死合う事も出来たというのに、カルナさんは敢えてそうしなかった。

拘り続けたものと殺し合わない理由は、何なのでしょうか。

カルナさんはアルジュナさんに、何を望んでいるのでしょう。

 

この謎を紐解く鍵は、ここまで書いた考察と、とある言葉にあると考えます。

カルナさんが己の意思を実行に移さない理由があるとしたら、それは「誰かに乞われた」か、「誰かに頼まれたか」の二択です。今まで書いたことを照らし合わせると、彼はその瞬間から己の思いを封じ、実行する機械になるのですから。

 

FGOという世界に現界してから――カルナさんが度々口にする言葉があります。

「母が願った理想」「かつて彼女が望んだ光景(モノ)」

母。カルナさんとアルジュナさんの母であるクンティーは、原典にてふたりの決戦の直前、カルナさんに自分がカルナとアルジュナの母親である事を打ち明けました。そして、願います。「こんな戦いはやめて、兄弟二人で一緒に戦ってほしい」と。

カルナさんは、それは出来ないと願いを拒否しました。今の自分は友への恩を仇で返す訳にはいかないと。

しかし、それでもカルナさんは約束しました。アルジュナ以外の兄弟には手を出さない。五人の兄弟が貴女の所に残ると。

そしてとうとう、「二人で戦って」という願いは、成就されませんでした。生前、唯一カルナさんが叶えられなかった願いと言っても良いでしょう。

この辺りはアポでも言及されています。そして、サーヴァントとなった今、友への恩も、神の呪いも、そして宿命もなくなった。「宿命の敵」と定めない限りは。

 

……体験クエで、カルナさんは己の目的を「小さなもの」だと述べました。

そしてその為ならば、己がアルジュナさんの敵に回っても良い。否、「回ってしまう」。そういう運命なのだから。しかし例えそうなっても、カルナさんには「小さなもの」の為に戦う理由があった。

カルナさんは、下された命令に対して大きいも小さいも言っている様子はありませんでした。彼の目的がそのような謙遜の言葉になるのは、己の事のみです。

つまり、目的である「小さなもの」は、カルナさんの願いであると考えられます。しかしカルナさんにとってアルジュナさんは、唯一の拘り続けたもの、そして許せぬ存在。「だからこそ」、そこに被さってくる願いが、その感情よりも優先するような事柄が、もしあるとしたら。

記憶を失っているアルジュナさんの目の前に突如現れたカルナさん。「それ」を得られるタイミングは、おそらく生前しかありません。アルジュナさんを救う理由となり得る、生前に起きた、カルナさんが願うであろう誰かからの願い。

わたしは、ただ一つしか思い浮かびませんでした。

叶えられなかった母の願いを、「二人で戦って」という懇願を、カルナさんは叶えようとしているのではないでしょうか。己にとっては許せぬ相手でも、それを目的としたのではないでしょうか。

カルナさんにとって、己の感情と願われたものは、まったく別のもの。切り離す事が出来ます。己に葛藤があったとしても、それは優先すべきことではない。優先するのは母の願い。

そうなると、カルナさんのこの内に秘めた思いはどうなるのかという問題が出てきますが……。実は、その答えのひとつが、カルナさん自身によって既に提示されているのです。

「(アルジュナさんの憎悪に対して)それは正しい憎み、正しい憤りだ。決して特別なものではない。そして、特別でない事とは、悪ではない。己を誤魔化すな、アルジュナ。そうせずとも、オレたちは横に並ぶことが出来る」

「あのマスターのように。振り払うことは出来ずとも、受け入れる事は出来るのだろう」

終局でのカルナさんの言葉です。アルジュナさんに語ったこの言葉。

……お気づきでしょうか。丸々、これ、カルナさんにも言えることなのです。

己にも確たる思いが、アルジュナさんに対してのみはある。ただ一つ受け入れられない事がある。けれどもそれを抑え、母の願いを優先しているカルナさん。

テラリンのとあるシーンにて、カルナさんはアルジュナさんと手を組んだ時、このようなことを言っています。

「我らが手を組めば敵はない」と。これも実はクンティーの言葉なのです。アルジュナさんが味方になった時、頼もしいと述べていたカルナさん。それは事実なのでしょう。

それでも、果たして今の彼は、その葛藤を受け入れているのでしょうか。アポから言葉を借りるなら、「仕方ない」と思っているのかもしれませんが。

ここまで来ると分かりません。新しい情報待ちです。これから掘り下げられる時が、もしかしたら来るかもしれませんね。

 

さて、結論です。

わたしは、アルジュナさんが歩み寄る事が出来たのなら、二人は殺しあわなくても良くなる、という事はあると思っています。

何故ならば、それが母の願いであり、カルナさんの願いでもあるからです。そこに己の葛藤があろうと、そこは関係ない。カルナさんは、そんなひとなのです。

「求められたら答える」。カルナさんのスタンスは、相手がアルジュナさんの場合であっても、変わりないのではないでしょうか。

カルナさんは、そんなひとなのです。

例えそこに小さな火が灯っていようとも、「仕方の無い事だ」と消してしまう。そうして人々の願いを優先する。「ただ一つ、拘り続けたものを目の前にしてもなお。」

これがあるかないかで、カルナさんへの理解は大きく変わってくるように思えます。

 

カルナさんというひと。

武人のようであり、聖人のようであり、神のようであり、それらを併せ持つ。誰かの為に身を捧げ、誰かの為に命を散らす。

それが心地よく、それが己の生き方であると定めた。

思慮深く、他人を見る目は鋭く。しかし己を見る目はない。

改めて、好きだなあと感じると同時に。まだ考える余地があると感じました。その時はきっとまた、記事を書くと思います。

インド兄弟の深さを、改めて実感しました。カルナさんというひとをたくさん考えられて、楽しかったです。