次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

第三.五回 好きなところを改めて

今回は少し趣向を変えます。

いつもは事実と台詞から、インド兄弟の関係性やそれぞれの想いを読み砕いていくこのブログですが、たまにはブログらしい記事のひとつでも書こうかなーという試みです。

と言うのも「わたしは二人が大好きです」と言っておきながら、どこが好きなのかとか何が良いのかとかそういうことを話していなかったな、と感じたので。今回は考察という行為を少しおやすみして、わたしの思う二人の良さを気ままに書いていこうと思います。原典にも触れますが、分からない人にも分かるように書いていきますね。

 

目次はこちら。

・あくまでも、まじめである

・磨き続ける信念と憧憬

・手が付けようのないマハーバーラタの世界

 

「あくまでも、まじめである」

クシャトリヤとしての使命。マスターに仕え、戦い抜くこと。インド兄弟の最優先事項は、まずそこにあります。

サーヴァントという存在は、生前こそありますが、本来はそれに縛られる必要は何一つありません。罰する神も、見守る家族も、牽引する民も、どこにもいないのですから。自分の思うままに生きても良い。むしろ、マスターを陥れようとするサーヴァントもいるくらいです。

その中でインド兄弟は、あくまでも「サーヴァント」は「マスターに仕え、導き、全力で守ることが己の使命」と、仕えるこそが己の歓びとまで言うほどに、使命を全うしようとします。忠誠を誓うサーヴァントは数多く存在しますが、二人のそれは、「使命」であることがポイントです。

二人の使命は、運命、定めとも言い換えれるような意味合いを含んでいます。そのような役割であり、そのように生まれ、生まれたからには役割を果たす。これは、原典のマハーバーラタに通ずる考え方でもあります。カルナさんはそれを「やるべきこと」と称することもありますね。

二人はそれに対して、妥協は一切許さないストイックな面があります。自分の身が滅ぶその時まで槍をオルタニキに向けたカルナさん。役割に相応しく在るために人格まで分けたアルジュナさん。ひたむきに、やるべきことと向き合う姿勢は、その方法の良い悪いは置いておいて、彼らの大きな魅力だと思います。

 

インド兄弟は礼装の出番はあれど、与太イベント等にあまり表立って出ないのはそのせいじゃないかなー、と個人的に思ったりしています。戦士としてあまりにも真面目過ぎて、天然のギャグじゃないと成立しないようなところはありますよね。カルナさんは度々ギャグに出演しますが、大抵天然ボケで終わりますし。アルジュナさんも幕間2でさりげなく天然かましてましたし(流石兄弟、血は争えない!)。わたしは天然キャラクター大好きなので、すごく魅力的に見える一面です。

ただ、そのせいか否か、やっぱり二人が誤解されやすいような面は拭いきれないなとも感じています。ストイックでひたむき過ぎて、そういうキャラクターだと思われがちというか。それは、アルジュナさんがカルナさんという人に執着していると思われたり(実際は己の業に囚われている)、カルナさんがアルジュナさんのすべてを受け入れていると思われたり(実際は決して認められない唯一の相手である)、今までブログで掘り下げた事によく表れていると思います。

特にアルジュナさんは、五章でも慣れない敵役に苦しみながらカルナさんと勝負を仕掛け、テラリンでは味方であっても別行動が多かったです。おいしい場面をもらってたからそれはそれでインド兄弟ファンとしては拍手喝采ものでしたが!!それでも彼の内面はなかなかFGOであっても、彼を所持していないと見られない幕間2や、レアプリがないと見られない体験クエストを見ないと分からないことが非常に多いですよね。二次創作や各所の反応などの影響で、カルナありきのキャラクター、という認識もかなり多いと思われます(わたしも、インド兄弟の記事を書き始める前はそれが常識とも言えるような認識でした)。

 

ここはこのブログ共通で主張していきたいところですが、アルジュナさんは、カルナさんという存在によって良さが引き立つことはあれど、ありきのキャラクターではないと思っています。

英雄として、授かった者として、愛された恵まれた者として……授かりの英雄として。どのように振る舞えば良いのか。サーヴァントとしてどのように行動すれば生前に恥じぬ姿でいられるのか。

見方を変えれば、生前の栄光に囚われているとも言えるこの思考。けれど、人々の輝く笑顔に、期待に応えようとする思いは本当に純粋で、彼は「英雄」としての器を自ら広げ、深めようと常に考えている。それもマスターに仕えながら。

思い詰めすぎてバカヤローとちゃぶ台返したくなる時もありますが、不器用ながらもその固執から成長していく姿は、まごう事なきアルジュナというキャラクターそのものの魅力です。

 

一時期、バレンタイン激重四天王として、アルジュナさんの名前が挙げられたことがありましたね。

色々と話題を呼んだあのプレゼントですが、わたしは前も話した通りカルナさんは推しなので、人の推しを殺した矢をプレゼントするやつがいるか!!???!!?とちゃぶ台を返していました当時。

今思えば、彼って授かってばかりなので、何かを考えてお返しに人に物をプレゼントするって全然なかったんでしょうね。それに加えて、自分に厳しい人なので、まだ役割を成し遂げていないのに好意をもらってしまった、ああどうすればこの好意に報いれるのか、と必死に考えた結果なんでしょうけども。

その上で、やっっぱり人のことなんてミリも考えてないんだなアルジュナさんよー、となるのも事実です。「自分が相手の好意に報いること」を考えすぎて、プレゼントに絶対必要な完全要の「相手の喜ぶ顔を浮かべてプレゼントを選ぶ」がないんですよね。誰かプレゼントカタログから相手が好きそうな物を選ぶということを教えてあげて。

そのぶんカルナさんのほうが、やり方は度外視するとしても、プレゼント慣れはしてるんですよね。おまえに似合うと思って、と、きちんと相手の姿を思い浮かべてます。そこまでしろとは言ってないけど。アンパンマンが自分の顔を分けてあげるみたいな感覚なんだろうかあれは……。

 

誰かと深く関わるというフィールドにおいては、カルナさんよりアルジュナさんのほうが不器用なところありますよね。その代わり、アルジュナさんのほうが、テラリンを見ていればわかりやすいんですけど、浅く関わるならよほど器用です。

ビジネスとしてきっちりあらゆることをこなします。人とのコミュニケーションもスムーズです。

例えるなら、アルジュナさんは1から5まで進むのは速くても、5から先は途端に行き止まりかってレベルでうまくいかない。カルナさんは逆に5まで進んでしまえば円滑にいくけど、そこにいくまでが大変。

二人とも、1から10までうまくいくキャラクターではないのです。でも、だからこそ魅力的に見えるし、深みがあって、もっと大好きになる要素が溢れていると思います!全部完璧なキャラクターよりも、よほど惹きつけられますよ。

二人とも、早い話「無難」を知らないんでしょうね。全力で向き合い、全力で応えようとする。「これで良いだろう」ではなく「これで行く」と言い切るような。

 

それを、あまりにもぶっ飛びすぎて、理解できないという人もきっといると思います。もっと器用に生きる方法を知っている人には滑稽に見えるだろうし、あまりにも全力過ぎて気が触れてるんじゃないかとすら思われても仕方ないとすら思います(五章でカルナさんもナイチンさんに妄執、病であると言われてましたしね)。

彼らは「あくまでも、まじめである」だけです。事に真摯に向き合う人たちであるだけです。けれど、それを見て感じることが皆同じではないので、ここに書いた魅力を押しつける気はありません。

好きを語る場でこんなことを言うのも変な話ですが、嫌いである人がいるのはしょうがないよなとも時々感じます。

だからこそ、わたしは二人が好きであることを、胸を張って主張していきたいと思います。それを魅力的に感じて、惹かれているのだと、声を上げていきたいです。

「あくまでも、まじめである」彼等は、完璧ではないかもしれないけど、素晴らしく素敵なのだと。

 

 

「磨き続ける信念と憧憬」

さて、二人がどれだけ真面目な人であるかは充分に語ったので、次の話に移ります。

前回、カルナさんにとっての輝ける王冠について掘り下げました。正義の人であるアルジュナさんは、カルナさんが唯一認められない相手である。

これ、書いててちょっと思ったんですけど、「聖人」としてカルナさんを認識してる人にとっては、かなり心苦しい要素だと思うんですよ。しみひとつないと思ってた真っ白なシャツに、黒いしみが見つかってしまったんですから。「彼はそんな人ではない。すべてを受け入れる人だ」としたいのは、特にCCCから入った方には有り得る話ですし、実際そのような言葉も一部ですが見たことがあります。

しかしわたしは、その要素は、カルナさんを高潔な戦士として、インド兄弟の因果を引き立てる良さにもなると思っています。反論とも違いますが、そこに関して話していきます。

 

アルジュナさんは、次の考察回で更に詳しく掘り下げようと思っていますが、カルナさんのことを善の人、善の英雄であることに憧れています。

使命などなくても、自ら人を助けようと手を差し伸べる英雄。人からの期待がなくても、その身を捧げる。

ああ、己はただ使命に尽くすばかりで、自らの善などどこにもない。善き者であるカルナに、どう足掻いても成れない。

 

で、カルナさんは、その綺麗に逆なんですよね。アルジュナさんが正義の人であることに、明確には示されていませんが憧れていると見えます。

皆から愛され、人の期待をその背に負いながら、一途に使命を全うする英雄。誰もが彼を讃え、多くの栄光を宿した。

己も願いに応えようとするが、その悪であっても存在する正義には敵わない。どんな最善を尽くそうと、正義に打ち倒される役にしか成れない。

 

英雄として。アルジュナさんは善を求め、カルナさんは正義を求めた。

すっっっっごい良くないですかこれ??(?)

わたしこれに気付いたときベッドから転げ落ちそうになったんですけどあまりにも素晴らしくないですかね???

 

二人とも、戦士として真面目に向き合い、上を目指すからこそ生まれる葛藤ですよね。戦士のあるべき姿を、お互いの中に見ているんです。

だからこそ宿敵。だからこそ、お互いを運命の相手と定めている。宿命とは、神々がいない世界においては、己の手で選び取るのだから。

アルジュナさんの誤解されやすいところは、この憧憬とカルナさんを『殺害しなければならない』理由がまた別にあることですよね)

 

授かりの英雄と施しの英雄。わたしはこの二人の良さは、その名やキャラクターデザインに留まらない、徹底的な対比関係にあると思っています。

黒と白、青と赤、王族と貧者、「我が強い」と「相手を見抜く」、正義と善。

何が良いかって、正義と悪でもなければ、善と悪でもないんですよ。正義と善という形での対比なんです。そうして戦士の善き人生を、第二の人生でも尽くそうとする二人。精神の成長で、己の価値観や道を新しく造り替えていく。己のあるべき姿とやるべき事を成すために。

同じことをぐるぐる言ってますが、その生真面目さを抜きにして二人を語れないとすら、最近は思ってきています。二人とも、抱えてるものはまったく違うけど、あるべき姿はもしかしたら同じなのかもしれませんね。

どこまでも正反対である二人、けれどもれっきとした血のつながった兄弟である二人。好きだなーと思います。

ただの「コンビ」「ライバル」だけでない、二人そのもの、キャラクターの奥深さを押し上げる良さが、この関係性にはあると思います。

 

 

「手が付けようのないマハーバーラタの世界」

話は変わりますが、二部四章実装が近づいていますね。

わたしはあくまでも考察が好きで、予想はほとんどしないので、そこに関しての言及はストーリーが終わった後であれこれと触れようと思っています。

今回はマハーバーラタと、アルジュナさんとカルナさんのキャラクター性との関連性から、好きなところを語っていきたいです。

わたしが読んだのは第三文明社の要約版マハーバーラタでしたが、ストーリーの筋はしっかりと追えつつ、子どもでも読みやすいような文体でしたので、かなりおすすめです。

 

マハーバーラタ。神々の子が誕生し、様々な登場人物と運命が絡み合いながら、やがては非常に大きな、身内同士による大戦争が引き起こされていく物語です。その中で定まった運命、定まった役割は、滅多に変えられるものではありません。そして皆が真面目に、ひたむきに生きていて、悪であったとしてもある種のまっすぐさがあります。

実を言うとわたし、原典の登場人物ではパーンドゥ長男(アルジュナさんの兄、カルナさんの弟)のユディシュティラが一番好きです。もし出てきたら涙を流しながら記事を書くと思うのでよろしくお願いします。

 

わたしはこのマハーバーラタが、今まで人生で読んできた本の中で、トップスリーに入るくらい面白い本だと感動しました。それはアルジュナさんとカルナさんがいるからでも、インド兄弟が好きだからでもないです。

マハーバーラタは世界最大規模の叙事詩であり、その起源も古いものですが、人が人として「善く生きる」ための哲学が多く盛り込まれています。

それは、例えば人が困っていたら親切にするとか、よわきものを助けることがつよきものの使命であるとか、嘘をついて騙すことはいけないことだとか、そういう秩序を守ることの大切さが書かれています。

しかし、それだけだとただの道徳の教科書です。この物語の素晴らしいところは、そんな大切さを説きながら、「それでも人は、間違える」を書いているところです。

 

一般的に、「リアリティ」とは、そのものがいかに現実に近いかという意味合いを持って使われる言葉ですが。

どんなに高潔な魂を持っていたとしても、どんなに勇敢な戦士だとしても、道を踏み外してしまうことがある。いかさまに騙されて、森に追放されてしまう。神の怒りを理不尽に買ってしまい、呪いをかけられる。

マハーバーラタの「リアリティ」は、そこに集まっています。善き人生を歩もうとしても、行き違いや困難は必ず発生するのです。時にそれは、理屈で説明できないほどの理不尽に包まれている。

マハーバーラタは、世界観自体は桁違いにぶっ飛んでいます。串刺しにされてもヨガの力で生き延びる聖者、クリシュナが米を一粒食べるだけで周囲の人間の腹まで満たされる謎の仕組み、厳しい修行をしていたら性転換していた謎以下略、挙げればきりがないです。

そのぶっ飛んだ世界の中で、登場人物達は各々に目的や思想を抱えながら、誰もが真面目に生きています。作中屈指の悪役、嫉妬に狂うドゥルヨーダナも、彼は最後までその姿勢を貫いていましたからね。

そして善く生きることを提示しながら、大きな争いを引き起こし、その虚しさ、嘆きも、マハーバーラタはしっかりと描いています。哀しみから逃げ出してしまいたいという弱さも、欲望に目がくらむ愚かさも。そういうものを同時に書くからこそ、高潔な戦士の気高さや優しさは相対的に際立ちます。

マハーバーラタに出てくる英雄は、神々の子が多いですが、そういう意味ではとても人間らしい物語と言えますね。人が人として、時に苦しみ嘆きながらも、善く生きることを描くお話ですから。

 

そんなお話が元になっているインド兄弟の二人が、「サーヴァント」として、「クシャトリヤ」として使命を全うするというキャラクターになっているのは、的を射ている設定だと感じます。

特にアルジュナさんの幕間2なんかは、上に書いた要点がほぼほぼ踏襲されていて、マハーバーラタを読み終わった後に幕間2を読み返したとき、本当に驚きました。めちゃくちゃ原典の再現性が高いストーリーだったと思います。あれが最高レアリティキャラクターを所持して育てていないと読めないのは勿体ないと思うくらいに。イヴァン雷帝にドハマリしてあれこれ経歴読んだときも、その精神性とキャラクターつくりの親和性というか、元の良さを踏まえつつキャラクターとしての深みを出すことをさせたらこの人の右に出る人いないな……と感動しましたが、アルジュナさんも同じ感動がありました。すごいよ東〇……ユディシュティラもあなたがキャラクター設定してくれ……(願望)(願望)

 

話がずれました。

これを踏まえた上で、上の好きなポイントを見てみると、また色々と感じ入るものがあるんですよね。

彼らはあくまでも真面目であるけど、見る人によっては嫌いであっても仕方ないというのは、ここに返ってくることでもあるんです。

主人公ご一行とも言えるアルジュナさん含めたパーンドゥ五兄弟は、善く生きる者達の模範であり、ほとんどの民や師匠から愛されていました。しかし、それを面白くない、何故パーンドゥだけがと嫉妬を燃やすのは、後にクルクシェートラで大戦争を引き起こすきっかけになるドゥルヨーダナです。

ご一行は、特にドゥルヨーダナの前であからさまに態度を変えていたわけではありません(後々は流石に耐えかねて変えてたけど)。他の人とも変わらず、平等に接し、特にユディシュティラは身内だからとドゥルヨーダナが困難に陥ったら急いで助けに行った時もありました。

しかしそれでも、ドゥルヨーダナの中に燃え盛る嫉妬の炎は収まりません。むしろ助けられた時は屈辱を与えられたと感じたほどです。

何が言いたいかと言いますと、ある行動、ある言葉を同じように複数人に実行したからといって、その反応が同じだとは限らないということです。

それは物語を読むことも、キャラクターを好きであることも、同じ事が言えると思います。ある人は憎く思い、ある人は嬉しく思う。

それを思うことは、悪くない。悪があるとするならば、その種が周りを巻き込んで、大きな争いに変わることでしょう。

インターネットもテレビもない時代に作られた物語は、そのようなことを時に物語として説いています。

 

争いすらも娯楽となりうる現代ではありますが。そんな時代の中に出会ったアルジュナとカルナというキャラクターのまじめさや、善き者として生きるひたむきさを、わたしはこれからも好きでいたいと思います。

そして出来ることなら、そんな二人に恥じない好母ひおりという人間でありたいです。

今回のお話は以上です。長々と長くなりましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

 

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