次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

「彩る言葉」の小説を夢見て vol.1

「言葉」とは、生き物だと思っています。

毎日当たり前のように耳にして、目にして、口にする。空気と同じ存在だと言っても過言ではありません。

息を吸って吐いて、目を開けば、耳を澄ませば、いつだってどこだって言葉は存在します。そしてそれは、時代と共に移り行き、スライムのように変化していく。

よく、小説は文字の媒体、文字の娯楽だと言われています。それは純然たる事実であり、小説で肝心要となるのはもちろん「文字」です。連綿と連なる、意味を作る線の数々。

しかしそれ以上に、小説とは「言葉」の娯楽なのではないでしょうか。小説を形作る土台とは、「文字」でありながら、「言葉」なのです。

この言葉としての表現は、漫画でもイラストでも敵わないところにあります。何故なら、漫画やイラストは言葉以上に描かれた線そのもので物語を受け止めるからです。

どちらが優れているかなど語るまでもありません。表現方法の種類としてそれぞれが現代にまで含まれている以上、優劣を付けようなど野暮でしかないのですから。

 

映画。イラスト。漫画。小説。詩。物語を物語として表される媒体は数多く、そのすべてを語ろうとは思いませんが、しかし。

今まで約10年、小説を書いてきました。大小様々な話を書いてきました。一年前の文章ですら目を覆いたくなるようなもの書きではありますが、今回は、いよいよと言うべきかようやくと言うべきか。

小説、についてお話したいと思いました。ここに書き記したいと感じました。せっかくのブログなんですから、書かないともったいないですよね。書きたいときが書くとき!初めて同人誌を出すぞとなった時も、同じ事を感じた覚えがあります。

 

そういうことで、おそらく長い話になるかと思われますが、お付き合いいただきますと幸いです。

――あ。最初に述べておきますが、わたしはもの書きですが、「読書家」ではありません。

好きな物語はありますが、好きな作家はほぼいないと言っても良いです。好きな「言葉を書く人」なら何人かいます。一年に読む本は多分10冊あるかないかくらいだと思います。

なので、おことわりしておきますが、この話に「小説は、こうあるべき」とか「最近の小説は、ここがいかんね」とか「この人の小説は、とても素晴らしくて……」という話はまず出てこないと思ってください。

もっと言うと、今から小説に繋がっていくことを話しますが、「小説」そのものの話はまあしません。多分びっくりするほどしません。

そして自分が感じたことを綴っていく備忘録的なものも兼ねているので、気軽な気持ちで見てくださったら良いと思います。

 

今回は、「言葉」の話をします。

 

「文字」と「言葉」の違いとは、何でしょう。

目に見えるものと見えないもの。まずはそのあたりが浮かんできます。

文字は紙に書いて、または画面に打たれて、初めて存在するものとなります。言葉は、耳にも入れることができます。それは一般的に声となって、誰かの耳に入れるために発されます。

見渡してみれば、文字は本当にそのへんに溢れています。ツイッターの画面を開けば、ありとあらゆる人の手で打たれた文字が見える。そして、それは大抵何かの感情にまかせて打たれた「言葉」でもあります。

今わたしの真横には本棚がありますが、あらゆる本のタイトルが、いつもわたしを睨んでいます。これはタイトルの「文字」ですよね。

 

これはわたしの思う定義ですが、文字は意味を持って何かに書かれたもの、言葉は何かしら目的があっての伝達手段、とかじゃないかと思ってます。

文字はものを現すもの、言葉はものを表すもの、と言い換えても良いです。文字はものを説明するもの、言葉はものを表現するもの、と言っても良いかなと。

 

人が小説に触れる時、その娯楽の印象は「文字」になっていると最初に述べましたが、それには二重の意味があります。

小説は「小さく説明する」と書きます。

あまり小説を書いたことがない人が小説を書こう!とするとき、大抵「どうやって説明をするか」が悩ましいところになると思っています。ソースは昔「小説の書き方」なるものを支部にあげたら、100くらいある他の小説作品の10倍くらいブクマが伸びたところにあります。文字の娯楽としての小説は、それほどまで広がっているものなのだなあとしみじみしました。

 

では、言葉の娯楽としてはどうでしょうか。

ものを現す文字の中に、ものを表す言葉の性質もあるとなったとき。どれほどの人が頷くのだろうとちょっと気になります。

しかし、これは小説とは関係なく、日々言葉というものに多く関わってきた人間としては、やはり「文字」の繊維には、人へ多くを感じさせる色があると思うのです。

 

自分に言い聞かせたい「おちつけ」のことば。 石川九楊×糸井重里 対談
https://www.1101.com/ochitsuke/kyuyoh/index.html

 

これは書家の石川九楊さんと、コピーライターの糸井重里さんが、「おちつけ」という言葉について対談をしたものです。

「文字」の集合体である小説を扱うわたしにとって、この対談はびっくりするくらい己の糧になりました。

書家の石川さん曰く、書く「文字」には言葉が持つ性質や意味合いを落とし込んでいる。筆の運びにそれを込める。逆に何も考えずにただ「文字」を書いているうちは、書家ではないと。

文字を扱うプロフェッショナルが語る言葉は、本当にここには書き切れないほどの質量がありました。文字とは、わたしが思っているより遥かに太く複雑に絡み合った繊維が含まれており、あらゆる色を染み渡らせることが出来るのだと。

 

小説は、自ら筆を取って綴るような表現方法ではありません。原稿用紙に書いたとしても、その文字の形で世界を表現するのではありません。

ならば、書家が筆運びで文字の持つ繊維を色染めするなら、小説は文字運びでその繊維に色を付けることが出来るのではないかと思いました。

話の構成。感情表現。ひらがな、漢字、一文字一文字が持つパワー。

小説は何万もの文字が集合して話を作っていきますが、その一文字一文字は「言葉」です。鮮やかに世界を彩ることが出来るのかは、それこそ書き手の技量にかかっています。

これを知っているか否かで、小説を書く人間としての表現力は大きく変わっていきそうです。

 

人の胸に染み渡る言葉とは、すべて一度魂と血を通り抜けて出力されたものですが。

小説にもまったく同じ事が言えるのではないかと思うので、そこは忘れないようにしたいです。

 

 

 

*所感のコーナー

これだけガンガン小説について語っている好母ひおりですが、実を言いますと昔は、自分がもの書きであることに対して萎縮することもありました。

「小説なんて文字さえ書けるのなら書けるよねえ」と思われてるんだろうなあなんて寂しい思いを馳せながら、風呂の湯気を見つめていたものです。

 

しかし、最近改めて気付きました。

そう、小説は文字さえ書けるのなら書けるのです。

 

 

……「おい!」とツッコミが聞こえそうですが。いや、しかし、小説は文字さえ書けるのなら書けるんですよ、本当に。

ただ、それはどんなものも同じです。イラストも、線が描ければ描けます。書も、墨と筆があれば書けます。映画だって、最近はスマホがあれば映像と声は撮れますよね。

どれもこれも、どんなものも。道具と知識さえあれば、それは創れはするのです。

 

けれど、過去のわたし。

あなたがあれほど言われることを恐れていた言葉に対して、今のわたしはこう言うことが出来るでしょう。

 

「小説なんて、文字さえ書けるのなら書けるよねえ」

「そうですね。けれど、今ここにわたしが出している小説は、あなたが書くものとは全然違うものだと思いますよ」

 

なんてったって、10年書いてきましたから。10年、色々と書いてきましたから。そして、これから先も15年、20年と書き続けていく予定ですから。

それを同じだとは言わせません。わたしはプロではないですし、小説も趣味で書いていますが、時間の重みは知っていますから。

知名度があったり、有名だったり、名が知れていることと、そこに長い時間を捧げたことは、まったく違うことです。

わたしのこの情熱は、わたしだけのものです。自分だけにしか分からない「良い」や「いまいち」があったとしても、これから先も書くことをやめたくないと思います。

人が文字を読むことを面倒くさくてやめたとしても。それがわたしの趣味ですから。

 

 

 

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以上、今回はここまでです。ありがとうございました。