次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

「彩る言葉」の小説を夢見て vol.1

「言葉」とは、生き物だと思っています。

毎日当たり前のように耳にして、目にして、口にする。空気と同じ存在だと言っても過言ではありません。

息を吸って吐いて、目を開けば、耳を澄ませば、いつだってどこだって言葉は存在します。そしてそれは、時代と共に移り行き、スライムのように変化していく。

よく、小説は文字の媒体、文字の娯楽だと言われています。それは純然たる事実であり、小説で肝心要となるのはもちろん「文字」です。連綿と連なる、意味を作る線の数々。

しかしそれ以上に、小説とは「言葉」の娯楽なのではないでしょうか。小説を形作る土台とは、「文字」でありながら、「言葉」なのです。

この言葉としての表現は、漫画でもイラストでも敵わないところにあります。何故なら、漫画やイラストは言葉以上に描かれた線そのもので物語を受け止めるからです。

どちらが優れているかなど語るまでもありません。表現方法の種類としてそれぞれが現代にまで含まれている以上、優劣を付けようなど野暮でしかないのですから。

 

映画。イラスト。漫画。小説。詩。物語を物語として表される媒体は数多く、そのすべてを語ろうとは思いませんが、しかし。

今まで約10年、小説を書いてきました。大小様々な話を書いてきました。一年前の文章ですら目を覆いたくなるようなもの書きではありますが、今回は、いよいよと言うべきかようやくと言うべきか。

小説、についてお話したいと思いました。ここに書き記したいと感じました。せっかくのブログなんですから、書かないともったいないですよね。書きたいときが書くとき!初めて同人誌を出すぞとなった時も、同じ事を感じた覚えがあります。

 

そういうことで、おそらく長い話になるかと思われますが、お付き合いいただきますと幸いです。

――あ。最初に述べておきますが、わたしはもの書きですが、「読書家」ではありません。

好きな物語はありますが、好きな作家はほぼいないと言っても良いです。好きな「言葉を書く人」なら何人かいます。一年に読む本は多分10冊あるかないかくらいだと思います。

なので、おことわりしておきますが、この話に「小説は、こうあるべき」とか「最近の小説は、ここがいかんね」とか「この人の小説は、とても素晴らしくて……」という話はまず出てこないと思ってください。

もっと言うと、今から小説に繋がっていくことを話しますが、「小説」そのものの話はまあしません。多分びっくりするほどしません。

そして自分が感じたことを綴っていく備忘録的なものも兼ねているので、気軽な気持ちで見てくださったら良いと思います。

 

今回は、「言葉」の話をします。

 

「文字」と「言葉」の違いとは、何でしょう。

目に見えるものと見えないもの。まずはそのあたりが浮かんできます。

文字は紙に書いて、または画面に打たれて、初めて存在するものとなります。言葉は、耳にも入れることができます。それは一般的に声となって、誰かの耳に入れるために発されます。

見渡してみれば、文字は本当にそのへんに溢れています。ツイッターの画面を開けば、ありとあらゆる人の手で打たれた文字が見える。そして、それは大抵何かの感情にまかせて打たれた「言葉」でもあります。

今わたしの真横には本棚がありますが、あらゆる本のタイトルが、いつもわたしを睨んでいます。これはタイトルの「文字」ですよね。

 

これはわたしの思う定義ですが、文字は意味を持って何かに書かれたもの、言葉は何かしら目的があっての伝達手段、とかじゃないかと思ってます。

文字はものを現すもの、言葉はものを表すもの、と言い換えても良いです。文字はものを説明するもの、言葉はものを表現するもの、と言っても良いかなと。

 

人が小説に触れる時、その娯楽の印象は「文字」になっていると最初に述べましたが、それには二重の意味があります。

小説は「小さく説明する」と書きます。

あまり小説を書いたことがない人が小説を書こう!とするとき、大抵「どうやって説明をするか」が悩ましいところになると思っています。ソースは昔「小説の書き方」なるものを支部にあげたら、100くらいある他の小説作品の10倍くらいブクマが伸びたところにあります。文字の娯楽としての小説は、それほどまで広がっているものなのだなあとしみじみしました。

 

では、言葉の娯楽としてはどうでしょうか。

ものを現す文字の中に、ものを表す言葉の性質もあるとなったとき。どれほどの人が頷くのだろうとちょっと気になります。

しかし、これは小説とは関係なく、日々言葉というものに多く関わってきた人間としては、やはり「文字」の繊維には、人へ多くを感じさせる色があると思うのです。

 

自分に言い聞かせたい「おちつけ」のことば。 石川九楊×糸井重里 対談
https://www.1101.com/ochitsuke/kyuyoh/index.html

 

これは書家の石川九楊さんと、コピーライターの糸井重里さんが、「おちつけ」という言葉について対談をしたものです。

「文字」の集合体である小説を扱うわたしにとって、この対談はびっくりするくらい己の糧になりました。

書家の石川さん曰く、書く「文字」には言葉が持つ性質や意味合いを落とし込んでいる。筆の運びにそれを込める。逆に何も考えずにただ「文字」を書いているうちは、書家ではないと。

文字を扱うプロフェッショナルが語る言葉は、本当にここには書き切れないほどの質量がありました。文字とは、わたしが思っているより遥かに太く複雑に絡み合った繊維が含まれており、あらゆる色を染み渡らせることが出来るのだと。

 

小説は、自ら筆を取って綴るような表現方法ではありません。原稿用紙に書いたとしても、その文字の形で世界を表現するのではありません。

ならば、書家が筆運びで文字の持つ繊維を色染めするなら、小説は文字運びでその繊維に色を付けることが出来るのではないかと思いました。

話の構成。感情表現。ひらがな、漢字、一文字一文字が持つパワー。

小説は何万もの文字が集合して話を作っていきますが、その一文字一文字は「言葉」です。鮮やかに世界を彩ることが出来るのかは、それこそ書き手の技量にかかっています。

これを知っているか否かで、小説を書く人間としての表現力は大きく変わっていきそうです。

 

人の胸に染み渡る言葉とは、すべて一度魂と血を通り抜けて出力されたものですが。

小説にもまったく同じ事が言えるのではないかと思うので、そこは忘れないようにしたいです。

 

 

 

*所感のコーナー

これだけガンガン小説について語っている好母ひおりですが、実を言いますと昔は、自分がもの書きであることに対して萎縮することもありました。

「小説なんて文字さえ書けるのなら書けるよねえ」と思われてるんだろうなあなんて寂しい思いを馳せながら、風呂の湯気を見つめていたものです。

 

しかし、最近改めて気付きました。

そう、小説は文字さえ書けるのなら書けるのです。

 

 

……「おい!」とツッコミが聞こえそうですが。いや、しかし、小説は文字さえ書けるのなら書けるんですよ、本当に。

ただ、それはどんなものも同じです。イラストも、線が描ければ描けます。書も、墨と筆があれば書けます。映画だって、最近はスマホがあれば映像と声は撮れますよね。

どれもこれも、どんなものも。道具と知識さえあれば、それは創れはするのです。

 

けれど、過去のわたし。

あなたがあれほど言われることを恐れていた言葉に対して、今のわたしはこう言うことが出来るでしょう。

 

「小説なんて、文字さえ書けるのなら書けるよねえ」

「そうですね。けれど、今ここにわたしが出している小説は、あなたが書くものとは全然違うものだと思いますよ」

 

なんてったって、10年書いてきましたから。10年、色々と書いてきましたから。そして、これから先も15年、20年と書き続けていく予定ですから。

それを同じだとは言わせません。わたしはプロではないですし、小説も趣味で書いていますが、時間の重みは知っていますから。

知名度があったり、有名だったり、名が知れていることと、そこに長い時間を捧げたことは、まったく違うことです。

わたしのこの情熱は、わたしだけのものです。自分だけにしか分からない「良い」や「いまいち」があったとしても、これから先も書くことをやめたくないと思います。

人が文字を読むことを面倒くさくてやめたとしても。それがわたしの趣味ですから。

 

 

 

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以上、今回はここまでです。ありがとうございました。

昔のDBファンから観た、ブロリーのはなし

ドラゴンボールは原作を所持して読んでいるくらいで、映画はトランクス悟天が主役のものをうっすら覚えてるくらいです

〇4DXを観に行きました


ドラゴンボールブロリーを観ました。本当に素敵な映画で、ブロリーに五回くらい背中を殴られながらも楽しく見終わりました。おかげで肩がほぐれたよ、ありがとうブロリー
この映画の素晴らしいところは大きく分けて三つだと思います。


「大迫力のアクションシーン」
ブロリーというキャラクター」
「昔のファンもにっこりのギミック」


アクションシーンがこれでもかというほど盛り込まれ、それでいて息をする暇もないスピードですべて通り過ぎていく。技と技の応酬を繰り返しながら、所々に休憩と言わんばかりにギャグシーンが挟んであったのが、まさにドラゴンボールらしい作品でしたね。
これは是非映画館で観るべきだなとしみじみ感じました。アクション映画として金字塔を建てられるくらいの迫力、スリル、緩急、どれを取っても完璧でしたよ。後述しますが、このアクションも、ブロリーという最強の名を語るサイヤ人が敵だったからここまで思い切れた、というのはありそうです。
ブロリーがキレてからの戦闘の連続は、今までの会話のやり取りをすべて吹き飛ばすくらいの勢いで、怒濤の波になって頭の中に流れ込んできます。この映画はヒューマンドラマとしての楽しさもありますが、それ以上にアクション、戦って痺れて盛り上がることにとにかく気合いが入っています。
その戦いの中でキャラクターが「強く」「かっこよく」描かれることに妥協がない!!何が良いって、まったく小ずるくないんですよ。小ずるさなんて塵みたいに吹き飛ばされるくらい強いから。これぞ少年漫画のかっこよさ!と大声で言えるものを追求してきてる作品だと感じました。今の時代、逆にここまで戦って強いかっこよさを表してくれる作品も、貴重なのではないでしょうか。


今回「かっこよさ」を感じた中で、改めて良いなあと思ったのは、強い者は強くなりたいと思いながら更に上を目指していることです。
最近たまに見るのが「特にそんなつもりないけど強くなっちゃった」系の作品で、漫画の宣伝とかでたまに目にするんですけど。今回の映画で、それを見てどこかもやついてた理由が分かった気がしたんです。
目標も理由もなく強くなったところで、それは本人にとっての本当の力にはならないんです。悟空もベジータも、根本的に戦うのが好きで、もっと強い人間と戦いたいからこそ上を目指す。その点今回のブロリーは、実力は強大だけど、その目の前には破滅しかありませんでした。
そんなつもりないけど強くなっちゃったところで、そこから何にも前に進めないんです。新しい道が作られない限り、そこで終わりなんですよね。始めの方にあった何故強くなりたいのかの問いかけは、ただ復讐の道具として生きてきたブロリーとの対比のようにも思えました。そういう点でも、良い作品だと実感出来ます。「不死身の肉体を手に入れても何も出来なければ意味がない」、良い言葉です……。


ブロリーのことは、正直全然知りませんでした。昔ブロリーとトランクス悟天が戦う映画を観たのですが、その時もただの脅威と言いますか、カカロットと発するだけの自然災害のような印象でした。本当は良い人とは風の噂で聞いたことがあったレベルです。
それが今回の映画で大幅に新しく肉付けされたみたいですね(パンフレット参照)。とても魅力的なキャラクターになったと思います。サイヤ人は基本馴れ合わない、プライド高く極悪非道、冷たい印象のキャラクターが多い中、育ってきた環境で不器用ながらも優しく逞しく育ったブロリー
そう、そういう意味では、今回のブロリーって悟空とある意味同じ境遇なんですよね。惑星ベジータで育たなかったからこそ、大きな器を獲得できた二人。ブロリーが見せる純粋な思いは、戦闘においても「これほどまでに純粋だから、戦いながら強くなれる」と、観てる人を納得させる面においても良い方向に作用しています。
後半のほとんどがアクションシーンで埋められながらも、最初のフリーザ軍の描写やバーダックの帰還が丁寧に描かれているので、ブロリーを取り巻く境遇は手に取るように分かります。今までのドラゴンボールのキャラクターは、悟空と一戦を終えてから親交を深めることは多々ありましたが、戦闘中に「このまま倒されないで欲しい」と思わせたキャラクターは少ないでしょう。ラディッツのほうがよっぽど悪役してたね。
もちろんそういうドラゴンボールが好きという人もいるかもしれませんが、今回の「サイヤ人」という悟空やベジータに身近なテーマならば、わたしは今回のスタイルもありだと思っています。


アニメではなく原作単行本派のわたしにとって、フリーザ編はとても印象深い話でした。
今でこそ当たり前になっているスーパーサイヤ人ですが、二度と生き返らないクリリンを殺されたときの悟空の怒りは、圧倒的な「強さ」があったことを覚えています。
あのシーンが名場面としてよく取り上げられるのは、ただ悟空が初めてスーパーサイヤ人になったから、ではありません。
悟空が初めて「キレた」からです。見せ物のように粉々になった親友の身体と高笑いを見せつけられ、クリリンへの弔いや悲しみよりも、殺意とも言える激しい怒りと闘志が燃え上がったからです。散々マイペースだとかのんきだとか言われていたあの悟空が。
今回、それが僅かながらもスクリーンに蘇ってくれたのは、とても嬉しかったです。フリーザサイヤ人をさらに強くさせる方法を、いびつながらに知っているというのは、その間にある奇妙な繋がりを感じてすごく面白かったですね。


そして、どうしてもフリーザに勝てずに悟空に頼み込むベジータの涙も、フリーザ編では同じくらい衝撃的でした。
同じサイヤ人として、フリーザを倒して欲しい。故郷の星が滅びてしまったサイヤ人の生き残りは、もう悟空とベジータしかいない。今思うと「サイヤ人」というものに対する思い入れや設定の深さは、ここから始まっていたような気がします(わたしはアニメはほぼ観ていないのでアニメは分かりませんが……)。
ベジータにとって、今回の悟空にとって、「純粋なサイヤ人」という存在は、それだけで特別な存在なのではないでしょうか。ただ純粋に強さを持ち、使い、その澄んだ心は良い意味で頂点を知らない。
セル編でベジータが言っていましたね。ベジータも、強さを目指す点においては純粋なのだと。
悟空、ベジータブロリー。三人ともが「純粋なサイヤ人」で、その三人が戦いながらどんどん見知らぬ高みを見せてくれたのは、「サイヤ人」極まる戦闘だったと思います。戦闘民族の本気を見せてくれましたね。ブロリーフリーザを圧倒するシーンは、彼らの戦闘民族としての純粋な闘志が、フリーザの圧制を完全に上回ったのだなあと感慨深くなりました。それはそれとして「私はフリーザですよ!?」と手をばたつかせていたフリーザめちゃくちゃ面白かったですが。
なので、ラストの展開も、わたしは納得のいくものだったと思います。今までの敵って悟空と異なるものの色が強かったのですが、今回のブロリーは同じものである色が強いんですよね。悟空が関心を持ち、そしてサイヤ人としての名を名乗ったのも、そういうことなんじゃないかなと考えたりしています。


そして、「大猿」。「大猿」が出てきた時、その力がブロリーのパワーの源だと知った時、第一巻から四十二巻まで漫画を何回も読み返していたわたしとしては、本当に嬉しかったです。
特にラディッツが襲来するまで、大猿は絶対的な脅威として何度も悟空の仲間達の前に立ちはだかりました。見たことのない、完全なる強い化け物として。月を消し飛ばすしか方法がなかったくらいに。
今やドラゴンボール界もパワーインフレ凄まじく、超能力や光線は当たり前で、光線の押し合いもしょっちゅうであるような印象でした。超になってからは少ししか観ていないのですが、人間ではない者(そういうキャラデザでもない者)が増えたな〜と思ったのを覚えています。
元々ドラゴンボールはファンタジー色が強かったのでそこまで気にしていませんでしたが、今回の戦闘は「肉弾戦」「ぶつかり合い」「力とパワーの削り合い」という感じで、腕の、拳の力のねじ伏せあいがとても楽しめました。こんなに「腕」の力がものを言わせる戦闘も、ドラゴンボールならではですよね。その力の一要因として、スーパーサイヤ人だけでない大猿の力も組み込まれていたのは、原点回帰を感じさせられてわたしは嬉しかったです(二回目)(本当に嬉しかったです)。
スーパーサイヤ人という伝説のくだりも、フュージョンを二回失敗するくだりも、大元の原作漫画に見られたやりとりで、観ていてにっこりしていました。
今回の映画、ドラゴンボールを知らない人も楽しめるとはよく聞いていましたが、わたしのように「昔はよく知ってるけど今のはよく知らない」という人も満足げ出来る仕上がりになっていたと思います。久しぶりに、ドラゴンボールに対する熱い想いが、映画を観て沸き上がってきました。あらゆるものを一新させながら、新しいものとして、面白く素晴らしい作品でした。


やはりバトルシーンは劇場で観るのが華なので、もう一度観て来ようと思います。

 


おまけ
4DX、今回が初体験でした。
すっっっごい良かったです。ここまで4DXで観て良かった、もう一度観る時も4DXが良いと思わされるとは。
キャラクターやUFOが浮くときは座席がふわーと上を向いたり、横にゆらゆらと振動したり、アトラクションを楽しんでいる気分になれました。戦闘中も座席は揺れ、なんと無数の光線が放たれると耳元を幾つもの風がブシュシュシュシュっと掠めるんですよ!!!!臨場感!!!!これが一番感動しました。かめはめ波を撃ったときのフラッシュも良い。水に飛び込んだ時はもちろん水が飛びます。背中にたたき付けられた時はマッサージ器みたいな丸い球?が背中をぐりっと押してきます。
映画の内容が良かっただけに、スリリングで楽しい体験をさせてもらいました。普通に座席に座って見るよりも、やはりその場に居合わせてる感じが強くなって、より作品に没頭出来ます。
今回はバトルシーンがとにかく良かったので、相乗効果で4DXの良さも最大限に味わえました。楽しかった-!!4DXでドラゴンボール超ブロリー観るのめちゃくちゃおすすめしたい!!そのへんのアトラクションに乗るより楽しめると思います!


迫力のバトルシーン、魅力的なキャラクター、「かっこいい」を魅せる演出。ドラゴンボール映画20周年に相応しい、素晴らしい作品でした!
感想は以上です。お疲れ様でした!

第三.五回 好きなところを改めて

今回は少し趣向を変えます。

いつもは事実と台詞から、インド兄弟の関係性やそれぞれの想いを読み砕いていくこのブログですが、たまにはブログらしい記事のひとつでも書こうかなーという試みです。

と言うのも「わたしは二人が大好きです」と言っておきながら、どこが好きなのかとか何が良いのかとかそういうことを話していなかったな、と感じたので。今回は考察という行為を少しおやすみして、わたしの思う二人の良さを気ままに書いていこうと思います。原典にも触れますが、分からない人にも分かるように書いていきますね。

 

目次はこちら。

・あくまでも、まじめである

・磨き続ける信念と憧憬

・手が付けようのないマハーバーラタの世界

 

「あくまでも、まじめである」

クシャトリヤとしての使命。マスターに仕え、戦い抜くこと。インド兄弟の最優先事項は、まずそこにあります。

サーヴァントという存在は、生前こそありますが、本来はそれに縛られる必要は何一つありません。罰する神も、見守る家族も、牽引する民も、どこにもいないのですから。自分の思うままに生きても良い。むしろ、マスターを陥れようとするサーヴァントもいるくらいです。

その中でインド兄弟は、あくまでも「サーヴァント」は「マスターに仕え、導き、全力で守ることが己の使命」と、仕えるこそが己の歓びとまで言うほどに、使命を全うしようとします。忠誠を誓うサーヴァントは数多く存在しますが、二人のそれは、「使命」であることがポイントです。

二人の使命は、運命、定めとも言い換えれるような意味合いを含んでいます。そのような役割であり、そのように生まれ、生まれたからには役割を果たす。これは、原典のマハーバーラタに通ずる考え方でもあります。カルナさんはそれを「やるべきこと」と称することもありますね。

二人はそれに対して、妥協は一切許さないストイックな面があります。自分の身が滅ぶその時まで槍をオルタニキに向けたカルナさん。役割に相応しく在るために人格まで分けたアルジュナさん。ひたむきに、やるべきことと向き合う姿勢は、その方法の良い悪いは置いておいて、彼らの大きな魅力だと思います。

 

インド兄弟は礼装の出番はあれど、与太イベント等にあまり表立って出ないのはそのせいじゃないかなー、と個人的に思ったりしています。戦士としてあまりにも真面目過ぎて、天然のギャグじゃないと成立しないようなところはありますよね。カルナさんは度々ギャグに出演しますが、大抵天然ボケで終わりますし。アルジュナさんも幕間2でさりげなく天然かましてましたし(流石兄弟、血は争えない!)。わたしは天然キャラクター大好きなので、すごく魅力的に見える一面です。

ただ、そのせいか否か、やっぱり二人が誤解されやすいような面は拭いきれないなとも感じています。ストイックでひたむき過ぎて、そういうキャラクターだと思われがちというか。それは、アルジュナさんがカルナさんという人に執着していると思われたり(実際は己の業に囚われている)、カルナさんがアルジュナさんのすべてを受け入れていると思われたり(実際は決して認められない唯一の相手である)、今までブログで掘り下げた事によく表れていると思います。

特にアルジュナさんは、五章でも慣れない敵役に苦しみながらカルナさんと勝負を仕掛け、テラリンでは味方であっても別行動が多かったです。おいしい場面をもらってたからそれはそれでインド兄弟ファンとしては拍手喝采ものでしたが!!それでも彼の内面はなかなかFGOであっても、彼を所持していないと見られない幕間2や、レアプリがないと見られない体験クエストを見ないと分からないことが非常に多いですよね。二次創作や各所の反応などの影響で、カルナありきのキャラクター、という認識もかなり多いと思われます(わたしも、インド兄弟の記事を書き始める前はそれが常識とも言えるような認識でした)。

 

ここはこのブログ共通で主張していきたいところですが、アルジュナさんは、カルナさんという存在によって良さが引き立つことはあれど、ありきのキャラクターではないと思っています。

英雄として、授かった者として、愛された恵まれた者として……授かりの英雄として。どのように振る舞えば良いのか。サーヴァントとしてどのように行動すれば生前に恥じぬ姿でいられるのか。

見方を変えれば、生前の栄光に囚われているとも言えるこの思考。けれど、人々の輝く笑顔に、期待に応えようとする思いは本当に純粋で、彼は「英雄」としての器を自ら広げ、深めようと常に考えている。それもマスターに仕えながら。

思い詰めすぎてバカヤローとちゃぶ台返したくなる時もありますが、不器用ながらもその固執から成長していく姿は、まごう事なきアルジュナというキャラクターそのものの魅力です。

 

一時期、バレンタイン激重四天王として、アルジュナさんの名前が挙げられたことがありましたね。

色々と話題を呼んだあのプレゼントですが、わたしは前も話した通りカルナさんは推しなので、人の推しを殺した矢をプレゼントするやつがいるか!!???!!?とちゃぶ台を返していました当時。

今思えば、彼って授かってばかりなので、何かを考えてお返しに人に物をプレゼントするって全然なかったんでしょうね。それに加えて、自分に厳しい人なので、まだ役割を成し遂げていないのに好意をもらってしまった、ああどうすればこの好意に報いれるのか、と必死に考えた結果なんでしょうけども。

その上で、やっっぱり人のことなんてミリも考えてないんだなアルジュナさんよー、となるのも事実です。「自分が相手の好意に報いること」を考えすぎて、プレゼントに絶対必要な完全要の「相手の喜ぶ顔を浮かべてプレゼントを選ぶ」がないんですよね。誰かプレゼントカタログから相手が好きそうな物を選ぶということを教えてあげて。

そのぶんカルナさんのほうが、やり方は度外視するとしても、プレゼント慣れはしてるんですよね。おまえに似合うと思って、と、きちんと相手の姿を思い浮かべてます。そこまでしろとは言ってないけど。アンパンマンが自分の顔を分けてあげるみたいな感覚なんだろうかあれは……。

 

誰かと深く関わるというフィールドにおいては、カルナさんよりアルジュナさんのほうが不器用なところありますよね。その代わり、アルジュナさんのほうが、テラリンを見ていればわかりやすいんですけど、浅く関わるならよほど器用です。

ビジネスとしてきっちりあらゆることをこなします。人とのコミュニケーションもスムーズです。

例えるなら、アルジュナさんは1から5まで進むのは速くても、5から先は途端に行き止まりかってレベルでうまくいかない。カルナさんは逆に5まで進んでしまえば円滑にいくけど、そこにいくまでが大変。

二人とも、1から10までうまくいくキャラクターではないのです。でも、だからこそ魅力的に見えるし、深みがあって、もっと大好きになる要素が溢れていると思います!全部完璧なキャラクターよりも、よほど惹きつけられますよ。

二人とも、早い話「無難」を知らないんでしょうね。全力で向き合い、全力で応えようとする。「これで良いだろう」ではなく「これで行く」と言い切るような。

 

それを、あまりにもぶっ飛びすぎて、理解できないという人もきっといると思います。もっと器用に生きる方法を知っている人には滑稽に見えるだろうし、あまりにも全力過ぎて気が触れてるんじゃないかとすら思われても仕方ないとすら思います(五章でカルナさんもナイチンさんに妄執、病であると言われてましたしね)。

彼らは「あくまでも、まじめである」だけです。事に真摯に向き合う人たちであるだけです。けれど、それを見て感じることが皆同じではないので、ここに書いた魅力を押しつける気はありません。

好きを語る場でこんなことを言うのも変な話ですが、嫌いである人がいるのはしょうがないよなとも時々感じます。

だからこそ、わたしは二人が好きであることを、胸を張って主張していきたいと思います。それを魅力的に感じて、惹かれているのだと、声を上げていきたいです。

「あくまでも、まじめである」彼等は、完璧ではないかもしれないけど、素晴らしく素敵なのだと。

 

 

「磨き続ける信念と憧憬」

さて、二人がどれだけ真面目な人であるかは充分に語ったので、次の話に移ります。

前回、カルナさんにとっての輝ける王冠について掘り下げました。正義の人であるアルジュナさんは、カルナさんが唯一認められない相手である。

これ、書いててちょっと思ったんですけど、「聖人」としてカルナさんを認識してる人にとっては、かなり心苦しい要素だと思うんですよ。しみひとつないと思ってた真っ白なシャツに、黒いしみが見つかってしまったんですから。「彼はそんな人ではない。すべてを受け入れる人だ」としたいのは、特にCCCから入った方には有り得る話ですし、実際そのような言葉も一部ですが見たことがあります。

しかしわたしは、その要素は、カルナさんを高潔な戦士として、インド兄弟の因果を引き立てる良さにもなると思っています。反論とも違いますが、そこに関して話していきます。

 

アルジュナさんは、次の考察回で更に詳しく掘り下げようと思っていますが、カルナさんのことを善の人、善の英雄であることに憧れています。

使命などなくても、自ら人を助けようと手を差し伸べる英雄。人からの期待がなくても、その身を捧げる。

ああ、己はただ使命に尽くすばかりで、自らの善などどこにもない。善き者であるカルナに、どう足掻いても成れない。

 

で、カルナさんは、その綺麗に逆なんですよね。アルジュナさんが正義の人であることに、明確には示されていませんが憧れていると見えます。

皆から愛され、人の期待をその背に負いながら、一途に使命を全うする英雄。誰もが彼を讃え、多くの栄光を宿した。

己も願いに応えようとするが、その悪であっても存在する正義には敵わない。どんな最善を尽くそうと、正義に打ち倒される役にしか成れない。

 

英雄として。アルジュナさんは善を求め、カルナさんは正義を求めた。

すっっっっごい良くないですかこれ??(?)

わたしこれに気付いたときベッドから転げ落ちそうになったんですけどあまりにも素晴らしくないですかね???

 

二人とも、戦士として真面目に向き合い、上を目指すからこそ生まれる葛藤ですよね。戦士のあるべき姿を、お互いの中に見ているんです。

だからこそ宿敵。だからこそ、お互いを運命の相手と定めている。宿命とは、神々がいない世界においては、己の手で選び取るのだから。

アルジュナさんの誤解されやすいところは、この憧憬とカルナさんを『殺害しなければならない』理由がまた別にあることですよね)

 

授かりの英雄と施しの英雄。わたしはこの二人の良さは、その名やキャラクターデザインに留まらない、徹底的な対比関係にあると思っています。

黒と白、青と赤、王族と貧者、「我が強い」と「相手を見抜く」、正義と善。

何が良いかって、正義と悪でもなければ、善と悪でもないんですよ。正義と善という形での対比なんです。そうして戦士の善き人生を、第二の人生でも尽くそうとする二人。精神の成長で、己の価値観や道を新しく造り替えていく。己のあるべき姿とやるべき事を成すために。

同じことをぐるぐる言ってますが、その生真面目さを抜きにして二人を語れないとすら、最近は思ってきています。二人とも、抱えてるものはまったく違うけど、あるべき姿はもしかしたら同じなのかもしれませんね。

どこまでも正反対である二人、けれどもれっきとした血のつながった兄弟である二人。好きだなーと思います。

ただの「コンビ」「ライバル」だけでない、二人そのもの、キャラクターの奥深さを押し上げる良さが、この関係性にはあると思います。

 

 

「手が付けようのないマハーバーラタの世界」

話は変わりますが、二部四章実装が近づいていますね。

わたしはあくまでも考察が好きで、予想はほとんどしないので、そこに関しての言及はストーリーが終わった後であれこれと触れようと思っています。

今回はマハーバーラタと、アルジュナさんとカルナさんのキャラクター性との関連性から、好きなところを語っていきたいです。

わたしが読んだのは第三文明社の要約版マハーバーラタでしたが、ストーリーの筋はしっかりと追えつつ、子どもでも読みやすいような文体でしたので、かなりおすすめです。

 

マハーバーラタ。神々の子が誕生し、様々な登場人物と運命が絡み合いながら、やがては非常に大きな、身内同士による大戦争が引き起こされていく物語です。その中で定まった運命、定まった役割は、滅多に変えられるものではありません。そして皆が真面目に、ひたむきに生きていて、悪であったとしてもある種のまっすぐさがあります。

実を言うとわたし、原典の登場人物ではパーンドゥ長男(アルジュナさんの兄、カルナさんの弟)のユディシュティラが一番好きです。もし出てきたら涙を流しながら記事を書くと思うのでよろしくお願いします。

 

わたしはこのマハーバーラタが、今まで人生で読んできた本の中で、トップスリーに入るくらい面白い本だと感動しました。それはアルジュナさんとカルナさんがいるからでも、インド兄弟が好きだからでもないです。

マハーバーラタは世界最大規模の叙事詩であり、その起源も古いものですが、人が人として「善く生きる」ための哲学が多く盛り込まれています。

それは、例えば人が困っていたら親切にするとか、よわきものを助けることがつよきものの使命であるとか、嘘をついて騙すことはいけないことだとか、そういう秩序を守ることの大切さが書かれています。

しかし、それだけだとただの道徳の教科書です。この物語の素晴らしいところは、そんな大切さを説きながら、「それでも人は、間違える」を書いているところです。

 

一般的に、「リアリティ」とは、そのものがいかに現実に近いかという意味合いを持って使われる言葉ですが。

どんなに高潔な魂を持っていたとしても、どんなに勇敢な戦士だとしても、道を踏み外してしまうことがある。いかさまに騙されて、森に追放されてしまう。神の怒りを理不尽に買ってしまい、呪いをかけられる。

マハーバーラタの「リアリティ」は、そこに集まっています。善き人生を歩もうとしても、行き違いや困難は必ず発生するのです。時にそれは、理屈で説明できないほどの理不尽に包まれている。

マハーバーラタは、世界観自体は桁違いにぶっ飛んでいます。串刺しにされてもヨガの力で生き延びる聖者、クリシュナが米を一粒食べるだけで周囲の人間の腹まで満たされる謎の仕組み、厳しい修行をしていたら性転換していた謎以下略、挙げればきりがないです。

そのぶっ飛んだ世界の中で、登場人物達は各々に目的や思想を抱えながら、誰もが真面目に生きています。作中屈指の悪役、嫉妬に狂うドゥルヨーダナも、彼は最後までその姿勢を貫いていましたからね。

そして善く生きることを提示しながら、大きな争いを引き起こし、その虚しさ、嘆きも、マハーバーラタはしっかりと描いています。哀しみから逃げ出してしまいたいという弱さも、欲望に目がくらむ愚かさも。そういうものを同時に書くからこそ、高潔な戦士の気高さや優しさは相対的に際立ちます。

マハーバーラタに出てくる英雄は、神々の子が多いですが、そういう意味ではとても人間らしい物語と言えますね。人が人として、時に苦しみ嘆きながらも、善く生きることを描くお話ですから。

 

そんなお話が元になっているインド兄弟の二人が、「サーヴァント」として、「クシャトリヤ」として使命を全うするというキャラクターになっているのは、的を射ている設定だと感じます。

特にアルジュナさんの幕間2なんかは、上に書いた要点がほぼほぼ踏襲されていて、マハーバーラタを読み終わった後に幕間2を読み返したとき、本当に驚きました。めちゃくちゃ原典の再現性が高いストーリーだったと思います。あれが最高レアリティキャラクターを所持して育てていないと読めないのは勿体ないと思うくらいに。イヴァン雷帝にドハマリしてあれこれ経歴読んだときも、その精神性とキャラクターつくりの親和性というか、元の良さを踏まえつつキャラクターとしての深みを出すことをさせたらこの人の右に出る人いないな……と感動しましたが、アルジュナさんも同じ感動がありました。すごいよ東〇……ユディシュティラもあなたがキャラクター設定してくれ……(願望)(願望)

 

話がずれました。

これを踏まえた上で、上の好きなポイントを見てみると、また色々と感じ入るものがあるんですよね。

彼らはあくまでも真面目であるけど、見る人によっては嫌いであっても仕方ないというのは、ここに返ってくることでもあるんです。

主人公ご一行とも言えるアルジュナさん含めたパーンドゥ五兄弟は、善く生きる者達の模範であり、ほとんどの民や師匠から愛されていました。しかし、それを面白くない、何故パーンドゥだけがと嫉妬を燃やすのは、後にクルクシェートラで大戦争を引き起こすきっかけになるドゥルヨーダナです。

ご一行は、特にドゥルヨーダナの前であからさまに態度を変えていたわけではありません(後々は流石に耐えかねて変えてたけど)。他の人とも変わらず、平等に接し、特にユディシュティラは身内だからとドゥルヨーダナが困難に陥ったら急いで助けに行った時もありました。

しかしそれでも、ドゥルヨーダナの中に燃え盛る嫉妬の炎は収まりません。むしろ助けられた時は屈辱を与えられたと感じたほどです。

何が言いたいかと言いますと、ある行動、ある言葉を同じように複数人に実行したからといって、その反応が同じだとは限らないということです。

それは物語を読むことも、キャラクターを好きであることも、同じ事が言えると思います。ある人は憎く思い、ある人は嬉しく思う。

それを思うことは、悪くない。悪があるとするならば、その種が周りを巻き込んで、大きな争いに変わることでしょう。

インターネットもテレビもない時代に作られた物語は、そのようなことを時に物語として説いています。

 

争いすらも娯楽となりうる現代ではありますが。そんな時代の中に出会ったアルジュナとカルナというキャラクターのまじめさや、善き者として生きるひたむきさを、わたしはこれからも好きでいたいと思います。

そして出来ることなら、そんな二人に恥じない好母ひおりという人間でありたいです。

今回のお話は以上です。長々と長くなりましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

 

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第三回 カルナにとっての「輝ける王冠」

約135日前、わたしはこのように言いました。

「カルナさんにはまだ考える余地がある。その時にはまた記事を書く」。

約160日前、わたしはこのように言いました。

「何故カルナは、アルジュナを受け入れているのか」。

 

約半年。最初にインド兄弟の記事を打ち立ててから、半年程の月日が流れていました。

その間にも、インド兄弟のことは大好きで、私情になりますがインド兄弟の同人誌を出すにも至りました。

そうして、彼等のことを考えているうちに、わたしの中にはひとつの疑問が沸き起こったのです。

 

「本当にカルナさんはアルジュナさんのことを受け入れているのだろうか」。

「飲み込んではいるかもしれない。けれど、彼の中に葛藤はないのだろうか」。

 

今回は、徹底的にそれを考え、語っていきたいと思います。

そしてその過程で、前回、前々回に書いた記事との矛盾も明らかになりますが、それもまたカルナさんというひとを、インド兄弟のことを解き明かす要因として、組み込んでいきたいと思います。

新しくブログに「インド兄弟をかんがえる。」というカテゴリーを作りました。今までの記事を読まれていない方は、ぜひ前の記事も読んでいただけたら嬉しいです。(一応、読まれていない方にも分かるような構成にはしていきたいと思います)

 

では、始めます。今回の記事は、「FGO第5章」の台詞を多く引用し、「FGO体験クエスアルジュナ&カルナ」からも少し取り上げます。焦点を狭いところに当てて、内面をじっくりと書いていこうという趣旨です。

最後までお付き合いしていただけると嬉しいです。

 

さて。アルジュナさんは「授かりの英雄」であり、カルナさんは「施しの英雄」です。これは彼等が好きな人ならば、言わずとも知れた事実です。

神々から愛され、民からも兄弟からも愛されて、あらゆる武器を授かり、その多大なる期待と運命を背負い、悉く敵を打ち倒した英雄、アルジュナ

出生から悲しき運命を辿りながらも、人に乞われたら時に自らの身体とも言える鎧を与え、その最期に至るまで義を尽くして戦果を上げた英雄、カルナ。

どちらも等しく、強くたくましく、讃えられるべき英雄であると、わたしは思っています。そしてそのどちらもが、お互いを宿敵だと考えていた。

詳しくは第一回にて述べていますが、アルジュナさんは己が生前に犯してしまった業の清算のためにカルナさんへと殺意を向け、勝負を仕掛けます。その時カルナさんは、その勝負に応えていました。

 

冒頭に戻ります。わたしは当時、こう書きました。

「何故カルナは、アルジュナを受け入れているのか」。

 

この問いは、「カルナはアルジュナを受け入れている」という前提の元で書かれています。

英雄「カルナ」。マテリアルや様々な作品で、「あらゆる人物や事柄をそれもありと受け入れ、それぞれを花と敬う賢人」と、説明には書かれています。何より今までの作品の中で、彼の思慮深さ、不器用ながらの優しさは、余すことなく表現されています。

今までのその経験から考えるなら、わたしは、そしてカルナさんが好きである人ほど、こう考えてしまいます。

「宿敵であったとしても、彼はアルジュナを受け入れている。そして、アルジュナはそんなカルナのことを羨ましいと思い、嫉妬しているのだ」。

おそらくは、インド兄弟が好きなほとんどの人は、このように考えているのではないでしょうか。もちろん全員とは言いませんが、少なくともわたしも、先日まではそう思っていました。

 

その上で、わたしは結論をここに述べます。「今のカルナさんは、アルジュナさんを受け入れていない」と。

第二回でわたしは、「見直してもカルナさんがアルジュナさんに拘っている事が分からなかった」と書きました。

訂正します!!!すみません。

彼の、アルジュナさんへの拘りは、確かに第5章に存在したのです。ただし、はっきりと示されてはいませんので、かなり分かりにくいです。順を追って、掘り下げていきたいと思います。

 

元々カルナさんは口数が多い方ではなく、その言葉の八割が、「気持ち」ではなく「事実」です。それもほぼ自分ではなく他者へと向けられるものなので、実は「彼がどういう人なのか」という掘り下げは、とても難しかったりします。

わたしはキャラクターの掘り下げの大半を、話している台詞から考えていますが、そういう意味ではカルナさんの資料はとても少ないのです……。なので、今まで見落としていることがありました。

「受け入れていない」という事が顕になったきっかけは、5章の、アルジュナさんについてマスターへ向けられた言葉にあります。

 

「授かりし英雄、輝ける王冠(キリーティ)……アルジュナこそは、正義を体現したに等しい英霊」

 

台詞を見返している時に、「あれ?」と、引っかかりを感じました。

カルナさんは基本的に、誰かのことを「正義の人」など偏ったような見方をせず、もっと公平な言い方をしていたような気がしたのです。

同時に、カルナさんはこのような事を言っています。

 

「本来、あの男は向こう側に居てはならない男だ」

 

わたしは第一回で、この台詞について、「カルナさんがアルジュナさんが正義の側にいないと生きていけないことを知っていた」と書きました。

しかし、だとしても、おかしいのです。このセリフは、「カルナ」という英雄のアイデンティティでもある「それもありと受け入れる事」が、何一つとして表れていないのです。

例えば、まったく同じような境遇の英雄がいるとして、カルナさんはこのように思い、声をかけるのが「カルナ」の模範と言えるのではないでしょうか。

 

「オレと敵対し、そちらの側につくか。愚かしい行為だな」

「悪になりきれぬのならば、みずからの首を絞めるだけだ。慣れる事の無い肩入れは見苦しいぞ」(訳:慣れないことをしているのを見るのはこちらも心苦しいよ)

 

今までの行動や言葉を考えるに、カルナさんは上のように、「まず現状を確認し、相手の意図を読み取り、分からない場合は相手に尋ねながら、それもありとする」というステップがあります。

その冷静さは、アルジュナさんを前にすると、途端になくなります。

この後の問答を見ていると分かりますが、「カルナさんはアルジュナさんが悪の側にいることを一度もそれで良いと言っていません」。

むしろ。滅ぼす側につくと言い切ったアルジュナさんに対して、間髪入れずに、「腐れ縁に免じて」と、すぐにたったひとつだけの約束を持ち込むのです。

もしアルジュナが勝利したのなら、英霊として世界を救えと。

 

相手のことを思慮深く見抜くはずのカルナさんは、現れたアルジュナさんの語りに、しばし無言を貫いていました。そして口にした言葉は、「オレもお前も癒えることのない宿痾に囚われているようだ」というものです。

これは、オレも、と入っているところから、己の思いも含まれているのでしょう。アルジュナさんを前にして、思うことがあるということになります。相手を受け入れる言葉ではない。

そして、それは己にとって歓喜であると、揃って口にする。神も呪いもない世界で戦える喜びがあると。そうして、己の後悔を晴らすことに執着するアルジュナさんに、もし勝利した場合は世界を救えと言い切ります。

 

この行為は、今まで見てきたカルナという英雄のことを考えると、とても違和感があります。

何が違和感があるのかというと、この勝利した場合世界を救えという提案は、決して「導き」ではないからです。

何故ならば。これが「導き」ならば、アルジュナさんとカルナさんの決闘は、本気の勝負ではなく、ただの「アルジュナが勝ち、アルジュナが世界を救うための儀式」になってしまいます。

そうではない証拠に、カルナさんも、「この約束を言い訳にはしない」「お互いに本気を出して戦う」とアルジュナさんと念入りに契りを交わしています。

勝つつもりがあるのならば。本気で打ち倒す気があるのならば。何を思い、カルナさんはそのような事を持ち掛けたのでしょうか。

約束の後。カルナさんはこのような事を零しています。

 

「……言いたくはないのだがな。その手の仕事は、貴様の方が遥かに上手い」

 

改めてこの台詞を見た瞬間。ああっ!!!と、わたしの背中に稲妻が落ちました。胸中に嵐がやってきました。

今まであらゆる人のあらゆる面を見抜き過ぎて嫌われてきたカルナさんの、「言いたくない」こと。そして、世界を救うという責務が上手くこなせる、正義を体現した、アルジュナという英雄とこぼす言葉。

 

そして、この言葉の意味を更に押し上げる言葉が、体験クエストにて紡がれています。アルジュナさんと共にいる主人公に向けて、カルナさんはこんなことを言っています。

 

「その男がそちらにいる以上、オレは君たちの敵として現れる。その逆も然りだが。神話には憎まれるべき悪が必要だ。オレは心底、その手の役回りには慣れていてな」

 

憎まれる悪。敵。神話においての悪は、英雄が英雄として輝くものである。

そしてカルナさんは、「その手の役回り」には慣れている。英雄に打ち倒される役が似合う。

逆に。世界を救うという英雄の役は、カルナよりもアルジュナの方が遥かに「その手の仕事は上手い」と考えている。

 

「授かりし英雄、輝ける王冠(キリーティ)……アルジュナこそは、正義を体現したに等しい英霊」

 

己には無いもの――コンプレックス。

カルナさんの言葉の端々に、それが表れていたのです。

 

アポにて、アルジュナさんのことを「唯一拘り続けたもの」と書かれていたことは、第二回で既に書きました。

「何をどう拘っていたか」までは、第二回では解き明かしていません。何故ならば、こうであるというはっきりした提示はどこにもなかったからです。

しかし、今なら言いきれます。施しの英雄は、授かりの英雄に対して、ある種のコンプレックスを抱いているのだと。

 

それを前提にすると、何故勝負の直前に「もしアルジュナが勝利したら」の約束を持ち掛けたのかという事にも説明が付きます。

たとえ全力で戦ったとしても。全力で打ち合ったとしても。相手は授かりの英雄であり、正義であり、己は打ち倒される立場である。しかしその授かりの英雄は、「今は」、自分を殺すことに執着し、世界を救うことに興味はないと言っている。

世界を救うことがこれ以上なく似合う英雄が。逆に、己には、マスターを助け、世界を救いたいという思いがある。しかし己は、世界を救う責務は似合わない。

あの約束は、カルナさんの、あらゆる覚悟の表れであり、保険であり、憧れだったのではないかと考えています。

本当は、カルナさんは、カルナ自身がマスターを助け、世界を救いたかったはずです。その力を、誰かを救うために振るいたかったはず。けれど、授かりの英雄という正義の塊と敵対した以上。己は打ち倒される立場になる。それに全力で抗う用意は出来ているが、もしアルジュナが勝利した場合――と。考えていてもおかしくはないです。

 

わたしは最初にこう書きました。

 

神々から愛され、民からも兄弟からも愛されて、あらゆる武器を授かり、その多大なる期待と運命を背負い、悉く敵を打ち倒した英雄、アルジュナ

出生から悲しき運命を辿りながらも、人に乞われたら時に自らの身体とも言える鎧を与え、その最期に至るまで義を尽くして戦果を上げた英雄、カルナ。

 

カルナさんは義に尽くしていましたが、運命にも多くの人にも決してアルジュナさんほど愛されることはありませんでした。

自分の身の回りにあるものに満たされてはいたけれど、「授かりの英雄」は、カルナさんが生前持たなかった愛を、母を、笑顔を、栄光を、その両手に抱えていた。

体験クエストにて、カルナさんはこんな事も言っています。

 

「……業腹だが。オレが真実を告げても、お前は決して納得すまい。この世において唯一、何があろうと認めぬ相手。オレにとってはそれが貴様だ、弓の男よ」

 

実はこの時点で既に、「カルナはアルジュナを受け入れていない」ということは丸わかりだったのですが。いざ掘り下げて調べてみるまで、あまり分かりませんでした。所感は後述しますが、思い込みとは恐ろしいです。

 

アルジュナさんは、カルナさんをまったく理解しておらず、むしろ己の後悔と業しか見えておらず、人の為に善を尽くすカルナさんに、嫉妬と憧憬を抱いていました。

カルナさんは逆に、アルジュナさんという英雄を深く理解し、どう歩んできたのかを識り、そこに己にはない多くの愛を見たからこそ、「拘り」と認めたくない思いを抱いたのではないでしょうか。

 

そしてこれを前提にすると、終章の見方が少々変わってきます。かつ、今までの物語も、少しずつ。

カルナさんがアルジュナさんに、その拘りや認めない事を本人に打ち明けることは、体験クエスト以外で今のところありませんでした。今回の5章で触れてきた言葉も、すべて主人公に言うか、独り言のようにこぼした言葉です。

何故なら、これは明白でしょうが、カルナさんは第二回でも触れた通り、コミュニケーションがとても苦手です。人の為に生きるがゆえに、己の思いに疎い。

 

アルジュナさんは、終章にて、カルナさんに「お前が憎い、そして羨ましい」と告げます。

 

……ここで、よく考えてみたら。カルナさんは、アルジュナさんの言葉に対して「……そうか」と短く返しています。

そして、己の思いを明かしません。オレは、と続けません。そうしてアルジュナさんが話の主導権を握ります。

ここの「……」は、カルナさんは、どんな思いで間を空けたのでしょうか。自分と異なり感情をはっきりと口に出すアルジュナさんを見て、己はどうなのか、考えていたのかもしれません。感情に名前を付けようとしていたのかもしれません。

そして、第二回で立てた説のように、母の願いを優先し、カルナさんはアルジュナさんとの健全な勝負に身を投じるのです。己の思いなど関係ないとでも言うように。

 

輝ける王冠。キリーティ。

それは、カルナさんにとって、届かぬ光。誰もに愛されし英雄。

深く識るゆえに、認められぬ存在。受け入れられない存在。

しかし――憎んではいない。何故ならば、悪は己であり、正義はアルジュナであるのだから。

 

考察は以上です。お疲れ様でした。

いつになるかは分かりませんが、カルナさんの紐はかなり解きつつあるので、次回はイマジナリーカルナさんとオリジナルカルナさんの違いから見る、アルジュナさんにとっての施しの英雄……とかを深めて書いてみたいなと考えています。

 

おしらせ

@knm_1518←ツイッターやってます。プロフィールのマシュマロに感想とか意見とか投げてくだされば答えますので、何かあればお気軽に。よろしくお願いします。

 

 

※所感のコーナー※

ここからは記事をかくにあたっての所感になります。考察は上で終わりなので興味のある人だけどうぞ。

わたしはインド兄弟ならカルナさんが推しなのですが、彼は聖人のようであり武人のようであり、冷静で、受け入れる人、という視点に対して疑いはありませんでした。すべてのひとに対してそうであると、無条件に信じていました。

それは違う。それは思い込みであったのだと、今回の考察でよく学んだのですが……改めて、自分の思考の浅はかさが浮き彫りになりました。同時に、「このキャラクターは、こうである」という固まった思考ほど、恐ろしいものはないな、としみじみと感じています。

わたしはキャラクターの事を考え、掘り下げることが好きです。(もともと、より良い二次創作がしたくてやっているんですが……)しかしそれは、視点が自分であってはならない。まっさらな視点で冷静に考えて見えてくるものもある。忘れないようにしたいです。

あ、そう、そういえばこの前初めて知ったのですが、このブログのインド兄弟の記事がわたしの思わぬところにまで広がっているらしく、ありがとうございます……!教えてくださった方、ありがとうございました!

わたしとしては、このブログの記事は、多くの人に読んでほしいと思っています。インド兄弟という二人に秘められた深みを、たくさんの人に知って欲しいからです。

わたし自身本当に未熟で、半年前の記事と食い違ってるところとかあるのですが、二人が大好きな者として、これからも色々考えて書いていこうと思います。いや原稿もしないとなんですけど。

よろしければ、次の記事も読んでくださったら嬉しいです!ありがとうございました。

「どうしてこうなってしまったの」が説明できる物語のはなし

先日、姉が面白い動画を見つけてきまして。一緒に見ていました。

「ゲーム解説」という名目ですが、この動画、システムやストーリーが「何故面白いと思えるか」まで解説、考察しているのですよ。

個人的に興味が惹かれたのは、ドラゴンクエストには何故温かみが感じられるのか」というものですね。わたしが真っ先に思いついたのはキャラクターデザインでしたが、細かいテキストへの気配り、初心者にも解るように丁寧に作られた導入など…なるほどと頷いてしまう物ばかりでした。かなりおすすめです。DQ以外にもMOTHERやMOON、ゼルダやマリオ、ポケモン、FF、ラスアスや逆裁など、幅広いジャンルを扱っていますので、興味がある方はぜひご覧ください。逆裁も面白かった。

 

さて、「何故面白いと思えるか」。これを踏まえて、わたしも少し前から考えていた事がありますので、今日の記事はそれを書こうと思います。そろそろこのブログ立ち上げた本来の用途も進めたいけどね!

 

はじめに。今回は「面白いと思える物語」に的を絞っています。これが「面白いコンテンツ」とかになってくるとまた話は違ってきてしまうので、ご注意ください。

面白い物語とは、どういう物なのか……少しずつ考えたいと思います。

 

今回上記の解説動画を見ていて、ゲームが人気になった秘訣は、ゲームをプレイする人にいかにわかりやすくシステムを理解させ、物語が頭に入ってくるかということが幅広いジャンルで挙げられていました。ストーリーの中身ではなく、仕組みの話です。

確かに、その通りだと思います。いくら内容に深みがあったとしても、「このゲーム、中盤が面白いから!」と言われても、序盤で躓いてしまっては元も子もありません。

実は、小説界隈でもこのような言葉があります。「小説は最初の三行が勝負」。昔目にした言葉なので出典は忘れてしまいましたが、小説の賞の審査をする際など、初めの数ページで面白いと思われなければ、その作品は落選だそうです。膨大な量があるので、いちいち中身を見ていられないという事ですね。

 

では。仮にそうやって、序盤で、物語に読む(見る)人を引き込めたとしましょう。インパクトのある冒頭。ショッキングな出だし。

その先で、何を書けば良い?

その後、どうすれば人を感動させられる?

人が物語を面白いと思えるためには、何が必要なのでしょうか。

 

最近わたしが見た物語の中で、面白いと思った作品が二つあります。

舞台「オセロー」。かの劇作家シェイクスピアが描く、四大悲劇の一つです。

映画「プリキュア。最近公開されたオールスターズの物です。

媒体もジャンルも時代も結末も、物理的な次元まで異なるこの二つの物語。何故この二つが同時に引き出されたのか、一見分かるはずもありません。

 

しかし、この二つの物語には、ひとつの共通点がありました。

 

「オセロー」の終盤、デズデモーナが嘆きながら言います。

「ああ、どうしてこうなってしまったの?」

プリキュア」の中盤、はなが涙ながらに叫んでしまいました。

「どうしてこんな事になっちゃったの!?」

 

これを聞いたとき。わたしはすんなりと頭の中で、こう理解しました。

「それは、すべてイアーゴの悪事のせいだ。裏で動くイアーゴにずっと振り回されて、何の罪もないのにこんな事になってしまったんだ。純粋に心配してただけなのに、ずっとデズデモーナは苦しめられてきた」

「それは、今までみんなで協力してきたのに、急にひとりになってしまったからだ。まだはなは中学生で、こんな苦しいことをひとりで背負えないのに。しかもこんなに否定されていたら、精神が摩耗してしまう」

ここまではっきりと言語化出来ていたとは思いませんが、少なくとも、「どうしてこうなってしまったの」というキャラクターの苦しむ言葉に、「それはこうだからだ」という理由は付けられます。

ここでのポイントは、事象と感情が結びつくかどうかです。

 

例えば、RPGもので、急に村が襲われて全焼したとしましょう。主人公が泣きながら叫びます。

「どうしてこんな事になってしまったんだ!」

「村が襲われたから」

…………。それで、そこから、どう言いましょう。事象は分かります。

では質問です。「どうして主人公は泣いているのでしょう?」

親しい人がいたから?家族が殺されたから?村の大切な物が無くなってしまったから?

あまりにも情報が少なすぎます。何も分かりません。何が起こったかは分かっても、どうしてここまで感情が動いているのか……?

わたしは、この理由を描いていくのが物語の八割だと思っています。

書き手が本当に言いたい事、本当にやりたい事。それを成すためには、事前の準備が必要なのです。ここを怠っては「面白い」は生まれないのではないでしょうか。

なぜならば、上のわたしのコメントを見れば分かりますが、「純粋に心配してただけなのに苦しんでいる」「今までみんながいたのにひとりになっている」と両者ともに「今まで」とのギャップがあります。

世間に「ギャップ萌え」という言葉は、既に浸透していますが。「面白い」と思われる物語にはすべてギャップがあります。

敵との戦いで、ピンチからの一発逆転。(形勢逆転、苦しみ→勝利のギャップ)

今までお世話になった人との、涙ながらの別れ。(立場の逆転、生→死のギャップ)

最近話題になっている、いわゆる異世界物の漫画、小説などは、このギャップが手軽に手に入れられるのではないでしょうか。

 

しかし、これらを描くには、その前の状態をいかに描くかが勝負になります。

物語の読者としてはっきり言いますと、今まで話に全然出てこなかったキャラが死んだところで全然悲しくないです。

今までのどんなコンテンツでも良いのですが、キャラクターが死んで悲しいと思えたとき、必ず理由があるはずです。

それは現実のわたしたちと同じです。ニュースで知らない人間が涙ながらに訴えても視聴者は泣かないのと同じです。(各々何かを思うことはあっても)

「何が起こって、どうしてこうなって、今キャラクターはそれを思っているのか」。それが見ている、読んでいる人にすっと理解出来る物語こそ、「面白い」のではないでしょうか。

 

「読者の心を動かす物語をかくにはどうすれば良いのか」。創作者をしていると、たまに見かける悩みではあります。

この記事を読んで、「面白い物語を書くにはギャップを作れば良いんだな」と思う人がいるかもしれませんが、展開にギャップを持たせれば良いと思われないようにご注意ください。

この問い掛け、答えはこれ以上無く簡単なのです。

心を動かしたいのならキャラクターの心を動かしまくれば良いのです。

笑ったり泣いたり怒ったり困らせれば良いのです。ただし本気で、ダイジェストにせず。キャラクターが本気で動けば、読んでくれる人も本気になる。「主人公」に感情豊かな人物が多いのも、そういう事なのでしょう。

とても理論としては簡単であり、しかし奥深く、難しいところです。そううまく、違和感なく、キャラクターの心を動かしまくれるものなのか?

そのための「展開」です。

物語の「うまさ」はそこにあります。わたしは、物語がうまい人とは、展開運びがうまい人のことだと思っています。作品のプレゼンでよく見る、いわゆるキャラクターの魅力も、そこに繋がってきます。

 

しかし。

先程、「事象はすぐに説明出来る」と話しました。そう、事象はいついかなる時でも、「○○が起こった」と書けば成立します。

成立はします。そして、展開とは事象の積み重ねです。うまく心を動かせるかは、その簡単に成立してしまうものを、いかにして丁寧に書くかが肝になります。

初めに話しました。人気ゲームは、いかにシステムをわかりやすく理解させ、物語が頭に入ってくるかが分かる。物語とは、物を語って聞かせると書きます。それが聞かせている側に分からなければ、「面白い」と思わないのは当然です。

 

……ここからは、少々所感になりますが。漫画やゲーム、小説など、キャラクターが登場するコンテンツの楽しみ方は多様化しています。

「向こう側に想像の余地を与えるために敢えて多くを語らない」というジャンルも(それを売りにする手法も)確立されています。それを否定する気はありません。

しかしその上で言いたい。敢えての有無は受け手に伝わります。

はっきりと言語化されなくても、確実に心に伝わるものはあります。敢えて語らないのか、初めから用意されていないのか、楽しんでいれば分かります。

物語とは受け手の想像を駆り立てるものではありますが、受け手に設定を任せるものではありません。

わたしはそれを信じています。面白い物語の根底には、「納得」がある事を。

 

長くなってしまいましたが、これからも物語を楽しみ、楽しんで書く人間でありたいと思います。以上、お疲れ様でした。

ワールドトリガーという「歴史漫画」のはなし

連載再開おめでとうございます。読者のひとりとして続きが気になっていたので、おめでたいニュースでしたね。トレンド入りも果たしていて、根強い人気があることにほっこりしていました。

ということで、せっかくなので、記念のプレゼン記事を書こう。

初めに言っておきますと、わたしはワールドトリガークラスタではありません。ワートリ最高!全員読んで!という者ではありません。読者ではありますが、友人から単行本を借りて全巻一気読みした程度の者です。

それでもプレゼン記事を書きたいなと思ったのは、ワールドトリガーという作品は、ジャンプ漫画の中でもかなり異彩を放っているように見えたからです。

わたしはドラゴンボールNARUTOONE PIECEジョジョなど、王道と言われるジャンプ作品は一通り履修しています。好きな作品はラッキーマンです。そんな人間にとって、ワールドトリガーはとても「面白い」漫画のように思えたのです。

結論に触れて言いますと、ワールドトリガーは「少年漫画の王道」ではありません。かつ、「チート物」と呼ばれるラノベ系の世界とも一線を画しています。

独自だからこそ異彩を放っているのです。逆に言えば、そこにハマらない人には地味だったり、違和感があったり、面白いと思えないような漫画です。

だからこそプレゼンをしたいと思いました。だからこそ記事を書いています。

これはコアだからこそ広く知られないともったいない!!

そんな思いで記事を書いていることを、最初に述べておきます。

 

そもそもワールドトリガーはどんな話なのかというと、異世界からの侵略者と戦うために、少年少女が防衛機関に入って頑張る話です。少年少女です。

ここがワールドトリガーのポイントです。明確なひとりの主人公がいません。「それっぽいポジション」「主役級のキャラクター」はいますが、「主人公」は存在していません。この時点で、ジャンプ漫画としてはかなり珍しいと言えます。

そしてわたしが何より「異彩」だと思ったのは、この漫画の主役はストーリーではありません。

この場合のストーリーとは、ドラマ的な、人間の心情の動きや葛藤等を指します。この漫画の核は、そこではありません。これはキャラクターブックの作者コメントを見るとよく分かりますが今回は割愛。

この漫画の面白みは、ダイナミックな戦闘シーン、人物の動きによる物事の変化。この二点だと思っています。

 

ワールドトリガーは(アニメは見てないので言い切れませんが)ほとんど戦いでコマが埋まっています。作画コストも、戦闘中の建物の崩壊の仕方が週刊漫画のそれではありません。そしてその戦いも、少年少女達が作戦を緻密に練り、いかにその作戦を予想通りに遂行出来るかが鍵となります。

そこにはおっかなびっくりの大逆転劇も、力の覚醒もありません。ここが、好き嫌いが分かれる一面だと思います。「そうは言っても、漫画だし夢欲しいよね~」という人には別の漫画をオススメしましょう。

しかし逆に言えば、ワールドトリガーはその作戦や特訓が実る事の楽しさを味わえると言えます。この作品が戦いと同じくらい尺を裂いているのが各々がどう戦うかの会話です。

自分達の力をどう使いこなしていくか。そしてそれを使って敵とどう戦うか。この作戦会議がとにかく濃い作品です。そして群像劇なので敵味方関係なく皆会議します。「そんなんどうだって良いでしょ~」と言ってる人は分かりやすくやらかして負けます。

この展開を楽しめるかが、ワールドトリガーを楽しめるかの大きな鍵です。

 

そしてそのような戦闘に力を注いでいる分、「ドラマ」は最小限です。ないとは言いません。キャラの思いや性格、過去はしっかりと存在していますので、キャラクターに魅力はあります、が、そこは作品のメインではありませんワールドトリガーは度々キャラクターの魅力が作品の魅力として取り上げられますが、あまりキャラクターの掘り下げに期待をしすぎると肩すかしを食らうかもしれません。

わたしはワールドトリガーを「歴史漫画」のような見方で読んでいます。キャラクターが動き、それによってどうなるかを味わう。いつも漫画は「キャラクターがどういう思いで動くのか」を重視して読んでいるわたしにとって、かなり特殊な方向で漫画を楽しめていると思っています。

ワールドトリガーという作品をよく表している言葉があります。

「(物事の勝ち負けに)気持ちの強さは関係ないでしょ」

これから読む人のために誰の発言かは伏せますが、この言葉、よく名言として取り上げられます。

わたしはこれをワールドトリガーという作品が自分に合ってるかの指標にしても良いと思っています。

これを聞いて「確かに」「良い言葉だ」と思った人は、是非!読んでみてください。ほぼ確実にワールドトリガーという作品を楽しめると思います。

 

以上の事から、ワールドトリガーはこんな人にオススメします。

・キャラクターが勝つまでの過程を味わいたい人

・人々の行動が交差する群像劇が好きな人

・練り込まれた世界観とキャラクターが好きな人

・戦闘シーンがたくさんある漫画が好きな人

・上記のセリフに納得出来る人

物語の中で起こっている盤上全体をまんべんなく楽しみたい人にはオススメ出来ます。

 

そしてこんな人にはオススメ出来ません。

・キャラクターが勝った結果を楽しみたい人

・ひとりの主人公が無双しているのを見るのが好きな人

・戦闘よりキャラクター同士が揉めたり恋愛してるのが見たい人

・上記のセリフに納得出来ない人

物語はキャラクターの心情を描く物と思っている人にはオススメ出来ないかも。

 

私情になりますが、ワールドトリガーにハマっている友人達は、あまり王道ジャンプ漫画に興味が無いひと達でした。

王道少年漫画ではないけど、少年少女達が協力して、努力して、熱い戦いを繰り広げる話です。これを読んで興味が出た方、今無料で読めるキャンペーンやってるらしいので、これを機にいかがでしょうか。

www.shonenjump.com

 

王道少年漫画ではないをさんざん言いましたが、主人公的ポジションの「三雲修」と「雨取千佳」はかなり王道的な要素を持ったキャラクターですので、そのあたりのバランスを楽しむのもアリだと思います。

長くなりましたが終わります。お疲れ様でした。

第二回 カルナさんというひとを理解するはなし

※この記事は前回の補足です。

前回の記事はこちら。

https://musicbell17.hatenablog.com/entry/2018/06/25/010841

 

アメリカのカルナさんとてもかわいい。

さて。先日、「アルジュナさんとカルナさんのはなし」と称して、インド兄弟の関係性について説を打ち立てた記事を載せてから、このようなお言葉が届きました。

「アポの沐浴のシーンを読んでください」。

沐浴のシーン……カルナさん好きの人の間ではかなり有名なワンシーンだとは風の噂で聞いていましたが、本当にお恥ずかしながら、アルジュナさんの事がアポに出てきているとはまったく知りませんでした。にわかがバレる。

まずは、そのようなお話を届けてくださった方へ、心より感謝申し上げます。アポはアニメを観て満足していたので、今回のような事がなければ、おそらく知る機会はなかったと思います。思っていたよりもアポに「アルジュナ」の名前が出てきてとても驚きました(後にアルジュナさんを出す伏線だったんだろうか…)。インド兄弟好きとして、カルナさんが好きな人間として、ここにお礼を述べさせていただきます。ありがとうございました。

……本当はCCCもやってからこの記事を書くべきだとは思ったのですが、個人的な事情により、今回はアポを含めたカルナさんとアルジュナさんの関係について、前回の補足という形で書きます。

今回の記事も、「Apocrypha(小説)」「FGO体験クエスアルジュナ&カルナ」「FGO終局」「FGO5章」「エクステラリンク」等から台詞を引用しますので、ご注意ください。

 

結論から言います。前回と、結論は変わりません。「カルナさんは殺したい訳では無い」「インド兄弟は殺し殺される関係とは言い切れない」と、アポを経ても考えが変わることはありませんでした。

ただ、そこに至るまでの過程が少々変化しました。今回はその話をすると共に、カルナさんという人について考察していこうと思います。また長い話になってしまいますが、お付き合いください。

 

アポの沐浴のシーンで、カルナさんはアルジュナさんのことを、「たった一つ己が拘り続けたもの」として名前を挙げています。そして、彼に向けていた感情は嫉みだったのか、嫉み以外の何かだったのか、分からない。誰かを妬む事などなかったカルナさんは、自分の感情に疎かった……とのような事が書いてありました。

アポのカルナさんはそれに加えて、戦士としての本能、高潔なる魂、考え方等についても濃く描写されていたような印象を受けます。戦士と書いてクシャトリヤと読む者としての生き方を貫くカルナさんが好きな身としてはもうニッコニコで読んでいました。5章の「ここに宿命はなく呪いもない」に通ずる描写もあって満足です。

という感想は置いておき。確かに、「拘り続けた者」だという事があると、前回書いた「この関係性はアルジュナさんの一方通行」という言葉は完全に誤りですね。

しかし、わたしはアポを読んでいてひとつの疑問を感じました。

「カルナさんがアルジュナさんに拘り続けたって、FGOのストーリーを読んでてもそんな事全然分からなかったよな……?」

前回の記事を書くにあたり、思いつく限りのカルナさんの言葉を回収しました。それを読み、考え、こうだという自分に納得のいく結論を出しました。その結論の判定はこの際どうでも良いです。

「それでもまったく分からなかった」のです。何度読んでも、何度見直しても、「カルナさんがアルジュナさんに拘っている」と感じ取れるような描写はない。例えそれを前提に読んだとしても、分からないのです。むしろ前回書いた通りアルジュナさんの一方通行に見える。カルナさんはアルジュナさんに対して、戦士としての対抗策は出すけれど、自ら殺し合おうとする気も見えない。

けれど、アポの描写で、確かに存在するのです。「カルナが喜びを見い出せていたのは戦いの場のみ」だと。ありのままの自分でいられる、殺し合いの場が己を昂らせてくれる。

その描写と、アルジュナさんに対する対応が、あまりにも矛盾しているのです。

 

ライターが忘れてしまったのか?メディア展開が多すぎて設定が追い付かなくなってしまったのか?そんな考えが過ぎりました。

――しかし。この矛盾に対する不信感に似た何かは、彼が普通の人間であった場合のそれです。彼が普通の人間であったなら、その可能性もあったでしょう。

 

わたしはこの矛盾こそが、カルナさんというひとの真骨頂を表しているのではないかと考えました。

この矛盾こそが。施しの英雄カルナに対して理解を深める入口になるのではないかと。

順を追って、ひとつずつ紐解いていきたいと思います。彼が、どんなひとなのか。

 

そもそも、ApocryphaFGOの決定的な違いは何でしょうか。

聖杯大戦と人理を救う戦い。多くのマスターとただ一人のマスター。と、いう話ではなく……媒体の話です。

アポは小説。FGOソーシャルゲーム。この際、アポアニメを入れても構いません。この三つの中で、「小説にだけある物」があります。

それは、「第三者による心理描写」です。この中で小説だけが、キャラクター自身の言葉を借りずとも、キャラクターの心を言葉で描く事が出来ます。それがあって、初めてわたしはカルナさんがアルジュナさんを拘り続けたと知る事が出来ました。実際、アポの「拘り続けたもの」は、カルナさんの口から直接出た訳ではありません。

逆に言えばカルナさん自身の心は、カルナさんというひとの葛藤や気持ちは、小説の地の文でないと描けない範囲があるという事です。

実際、アポで、これを裏付けるような興味深い描写があります。

序盤でシロウからルーラーを殺害するように命じられたカルナさん。この命は「ランサーならばマスターの命令に異議を申し立てず従うだろう」と考えての事で、実際カルナさんは諒解したと返事をして、殺害に向かいます。

しかしこの時、カルナさんはこの命令に対して疑念を抱いていました。かつ、何故マスターはそのような命令を下したのか、その理由も考えていたのです。それでも、命令は命令だから、と、カルナさんは忠実にそれを実行します。

この疑念を抱き、理由を考える流れも、カルナさん自身の言葉では語られていません。すべて小説の地の文による物です。

 

さて。

何故カルナさんは、これらを己の言葉で語らないのでしょうか?

疑念を抱いた事も、拘り続けた事も、彼は己の口から出しません。それらがなかったかのように振る舞います。振舞っているように見えます。

これこそが、カルナさんの「一言足りない」の所以なのでしょう。だとしても何故?

答えは簡単です。今まで散々言われてきたことです。彼は「誰かの為に生きる英雄」なのだから、己の事を口に出さないのは、至極当たり前の事なのです。その上で、彼の中では「それが当たり前」になっています。

カルナさん自身、「何故コミュニケーションが苦手なのか気付いていない」のです。

元々コミュニケーションとは、お互いの意思を、意見を通じ合わせるためにあります。しかしカルナさんの人生は、誰かの為に生きる、誰かの力になって散るためのもの。そこに己の意思は必要ない。「だから苦手」なのです。

他人をこれほどまで暴き立てる人が、自分の事にはこれほどまで気付かない。そこが魅力ではありますが、このような生き方をしている以上、仕方ない事なのかもしれませんね。

前回の記事にも書いた通り、カルナさんはカルナさん自身で何も考えていない訳ではありません。しかし、「それを踏まえても」、彼は命令を、願いを、マスターを、守るべきものを優先させるのです。

それが、カルナというひと。そして、これでまた、見えてくるものがあります。

 

前回の記事で、わたしはひとつ、とても大きな、大事な事を考え忘れていました。

終局にて、カルナさんがアルジュナさんに健全な戦士としての戦いを提示したのは事実です。ぐだにアルジュナさんを託していき、「オレの目的など小さなもの」と残していったのも確かな事実です。

わたしはこれに対して、カルナさんは正しく生きようとする者を庇護しようとした、と書きました。しかし今になってみれば、ひとつ大きな矛盾があります(後で修正します)。

「体験クエの時、アルジュナさんは正しく生きようとしていなかった」のです。すべての虚無を抱えて、死んでも同じだと諦めていたアルジュナさんを、カルナさんは己がアルジュナさんの目の前に現れる事で救ったとも言えるでしょう。

 

何故救ったのか?

彼の目的とは、何だったのでしょうか?

カルナさんは、アルジュナさんに「アルジュナ」として生きる道を提示しました。それは何故か?

前回はここを見落としていました。もちろん前回書いた「アルジュナさんの事情を知っていたから」というのもあるかもしれません。

しかし、アルジュナさんはそれをカルナさんに頼んだ訳ではありません。心置き無く死合う事も出来たというのに、カルナさんは敢えてそうしなかった。

拘り続けたものと殺し合わない理由は、何なのでしょうか。

カルナさんはアルジュナさんに、何を望んでいるのでしょう。

 

この謎を紐解く鍵は、ここまで書いた考察と、とある言葉にあると考えます。

カルナさんが己の意思を実行に移さない理由があるとしたら、それは「誰かに乞われた」か、「誰かに頼まれたか」の二択です。今まで書いたことを照らし合わせると、彼はその瞬間から己の思いを封じ、実行する機械になるのですから。

 

FGOという世界に現界してから――カルナさんが度々口にする言葉があります。

「母が願った理想」「かつて彼女が望んだ光景(モノ)」

母。カルナさんとアルジュナさんの母であるクンティーは、原典にてふたりの決戦の直前、カルナさんに自分がカルナとアルジュナの母親である事を打ち明けました。そして、願います。「こんな戦いはやめて、兄弟二人で一緒に戦ってほしい」と。

カルナさんは、それは出来ないと願いを拒否しました。今の自分は友への恩を仇で返す訳にはいかないと。

しかし、それでもカルナさんは約束しました。アルジュナ以外の兄弟には手を出さない。五人の兄弟が貴女の所に残ると。

そしてとうとう、「二人で戦って」という願いは、成就されませんでした。生前、唯一カルナさんが叶えられなかった願いと言っても良いでしょう。

この辺りはアポでも言及されています。そして、サーヴァントとなった今、友への恩も、神の呪いも、そして宿命もなくなった。「宿命の敵」と定めない限りは。

 

……体験クエで、カルナさんは己の目的を「小さなもの」だと述べました。

そしてその為ならば、己がアルジュナさんの敵に回っても良い。否、「回ってしまう」。そういう運命なのだから。しかし例えそうなっても、カルナさんには「小さなもの」の為に戦う理由があった。

カルナさんは、下された命令に対して大きいも小さいも言っている様子はありませんでした。彼の目的がそのような謙遜の言葉になるのは、己の事のみです。

つまり、目的である「小さなもの」は、カルナさんの願いであると考えられます。しかしカルナさんにとってアルジュナさんは、唯一の拘り続けたもの、そして許せぬ存在。「だからこそ」、そこに被さってくる願いが、その感情よりも優先するような事柄が、もしあるとしたら。

記憶を失っているアルジュナさんの目の前に突如現れたカルナさん。「それ」を得られるタイミングは、おそらく生前しかありません。アルジュナさんを救う理由となり得る、生前に起きた、カルナさんが願うであろう誰かからの願い。

わたしは、ただ一つしか思い浮かびませんでした。

叶えられなかった母の願いを、「二人で戦って」という懇願を、カルナさんは叶えようとしているのではないでしょうか。己にとっては許せぬ相手でも、それを目的としたのではないでしょうか。

カルナさんにとって、己の感情と願われたものは、まったく別のもの。切り離す事が出来ます。己に葛藤があったとしても、それは優先すべきことではない。優先するのは母の願い。

そうなると、カルナさんのこの内に秘めた思いはどうなるのかという問題が出てきますが……。実は、その答えのひとつが、カルナさん自身によって既に提示されているのです。

「(アルジュナさんの憎悪に対して)それは正しい憎み、正しい憤りだ。決して特別なものではない。そして、特別でない事とは、悪ではない。己を誤魔化すな、アルジュナ。そうせずとも、オレたちは横に並ぶことが出来る」

「あのマスターのように。振り払うことは出来ずとも、受け入れる事は出来るのだろう」

終局でのカルナさんの言葉です。アルジュナさんに語ったこの言葉。

……お気づきでしょうか。丸々、これ、カルナさんにも言えることなのです。

己にも確たる思いが、アルジュナさんに対してのみはある。ただ一つ受け入れられない事がある。けれどもそれを抑え、母の願いを優先しているカルナさん。

テラリンのとあるシーンにて、カルナさんはアルジュナさんと手を組んだ時、このようなことを言っています。

「我らが手を組めば敵はない」と。これも実はクンティーの言葉なのです。アルジュナさんが味方になった時、頼もしいと述べていたカルナさん。それは事実なのでしょう。

それでも、果たして今の彼は、その葛藤を受け入れているのでしょうか。アポから言葉を借りるなら、「仕方ない」と思っているのかもしれませんが。

ここまで来ると分かりません。新しい情報待ちです。これから掘り下げられる時が、もしかしたら来るかもしれませんね。

 

さて、結論です。

わたしは、アルジュナさんが歩み寄る事が出来たのなら、二人は殺しあわなくても良くなる、という事はあると思っています。

何故ならば、それが母の願いであり、カルナさんの願いでもあるからです。そこに己の葛藤があろうと、そこは関係ない。カルナさんは、そんなひとなのです。

「求められたら答える」。カルナさんのスタンスは、相手がアルジュナさんの場合であっても、変わりないのではないでしょうか。

カルナさんは、そんなひとなのです。

例えそこに小さな火が灯っていようとも、「仕方の無い事だ」と消してしまう。そうして人々の願いを優先する。「ただ一つ、拘り続けたものを目の前にしてもなお。」

これがあるかないかで、カルナさんへの理解は大きく変わってくるように思えます。

 

カルナさんというひと。

武人のようであり、聖人のようであり、神のようであり、それらを併せ持つ。誰かの為に身を捧げ、誰かの為に命を散らす。

それが心地よく、それが己の生き方であると定めた。

思慮深く、他人を見る目は鋭く。しかし己を見る目はない。

改めて、好きだなあと感じると同時に。まだ考える余地があると感じました。その時はきっとまた、記事を書くと思います。

インド兄弟の深さを、改めて実感しました。カルナさんというひとをたくさん考えられて、楽しかったです。