次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

国勢調査ってたいへんだのはなし

国勢調査。オリンピックよりもスパンが長い、5年に1度のビッグイベントである。

今回、諸事情あって、国勢調査に少しだけ関わることになった。ちなみにわたし自身は調査員ではなく、調査員になるような仕事に勤めている訳でもない。身バレが怖すぎるのできっかけは諸事情だったと伝えておく。

今まで実家暮らしだったので、わたしは国勢調査を実施したことはない。国勢調査って何?くらいから始まった人間だが、関わるうちに大変な面、どうしようもない面も見えてきた。今回はそういうところを、少しの体験談とともに書き留めておこうと思う。

 

そもそも国勢調査って何か?何を調査するんだ?

ものすごく簡単に言えば、「そこに誰が住んでいるのかを確認する調査」。日本にはたくさんの家やアパートがあるが、そこに何歳の人が住んでいるのか、何人で住んでいるのか、家の代表は誰なのか……を調べるのが、国勢調査の目的である。

ここで疑問を持つ人もいるだろう。「でも、住民票があるじゃないか。住民票を見れば、そこに誰が住んでいるのかなんて一目瞭然だろう」と。

その通りなのだが、そううまくはいかないところを調査するのが、国勢調査の目的だ。

 

例えば、その家には80歳のおじいちゃんが一人で住んでいた。住民票ではその家に住んでいることになっている。

しかし、3年前、おじいちゃんは腰が悪くなり、一人で住めなくなってしまった。別に住んでいた息子の家で過ごすことにした。

本来はそこで住民票を息子の家に移動させなければならないのだが、その手続きをめんどうだからと怠っていた。もしくは手続きの存在を忘れていた。おじいちゃんの住んでいた家は今は空き家なのに、おじいちゃんが住んでいることになっている……。

 

例におじいちゃんを挙げたが、これは老若男女誰でもあり得ることだ。引っ越しだけではなく、施設に入所したりするパターンもある。

こういうことがあり得るので、定期的に住民票とは別に、「いま、実際に住んでいる人」を確認する必要がある。

これが国勢調査だ。「住民票通りに人が住んでいるのかの確認」とすれば分かりやすい。

国勢調査は家にわざわざ自分の足で出向いて、そこが空き家ではないか確認し、何十世帯に配るために重い書類を肩から提げ、一件一件呼び鈴を鳴らして回っている。住民票はあくまで参考にしかならないからだ。「ここはこの間○○さんが住民票の登録に来たから、ここは調査しなくてもいいよね」は一切通用しない、厳しい調査なのだ。

 

ここで国勢調査の書類を受け取った側の話に変えよう。

国勢調査の書類?住民票があるんだから、別に出さなくても良いでしょ」……上の文章を読んだ人ならば、これが通用しないことはお分かりいただけるだろうか。

そう、国勢調査の書類を出さなければ、たとえ住民票が正しいとしても「そこに人は住んでいない」と見なされるのだ。なぜなら、これは「住民票通りに人が住んでいるのかどうか」の調査だからだ。

人が住んでいないと見なされればどうなるだろうか。人が減ったぶん、その世代に対する施策の需要が減り、結果的に市や国からは見放されることになるだろう。人が住んでいなければ考えるだけ意味のないことだからだ。

 

それくらい大切なものだから、調査員は一件一件足で回らないといけないとも言えるのだろう。漏れは許されないからだ。

インターネット回答の方法も出来たが、まだまだ回線を引いていない家もある。インターネットを引いていないから、ネット回答が簡単だって言われても、よく分からないからうちは郵送で……という家もある。わたしの祖父はそうだった。国勢調査のために回線を引いてくださいねとも言えない。

そうなると平等に、やはり書類は手渡しで、となってしまう。少しだけ国勢調査に関わらせてもらったが、ここは一番難しいところだと感じた。

調査員側も、この令和の時代に足を使った調査をやりたいという人は……いるのかもしれないが、おそらく多くはないだろう。全部ネットにしたら、調査員は足を使わず回答側は玄関に出る手間が省けてWIN WINなのだが、上記の関係で全部ネットにするのは非常に難しい。

 

であれば、どうするか?

調査側に、回答側が「ネット回答の需要はあるんだぞ」というのを見せつけるしかないだろう。

これで一番怖いのは、せっかくネット回答という令和の時代に便利なものが出来たのに、誰もネット回答せず、郵送回答ばかり送られ、「あ、ネット回答作ったけど無駄だったわ。IDとかパスワード作るのも時間の無駄だし、次回から全部郵送にしよう」と判断されることだ。

国勢調査も、多くの誰かの時間を割くことで出来ている「仕事」だ。無駄と判断されれば次から実施しないのは当然のことだろう。この調査自体は上記の理由で必要なものだから、どう実施するかを考えるしかない。

 

わたしたちのためにも、時間を割いて各世帯に重い書類を提げて歩き回り、見知らぬ人の家の呼び鈴を仕事のために鳴らさないといけない調査員のためにも、ネット回答の需要を伸ばしましょう。というのが、この記事で言いたかったことです。

 

……国勢調査ってたいへんだ。

だからこそ、この記事を書いた。このブログを読んでいる方はネット回線は確実に引いていると思うので、

 

みなさん、国勢調査にネット回答しましょう。10月7日までですよ!

 

ここまで読んでくださりありがとうございます。

世界は、誰かの仕事でできている。改めてそう思わされた数日でした。

HSPという「気質」のはなし

今日はわたしにとって、ひとつのとっても大事なことが分かった日だ。忘れないように、ここに書いておきたいと思う。

 

きっかけは、先日、彼氏さんと某夢の国に行った時だった。かなり前のことになる。

夢の国ではあらゆるアトラクションが稼働しており、特にシーでは定期的に象徴とも言える火山が噴火したりする。人工的な地鳴りの音がスピーカーから流れたりする。

わたしはそれが苦手だった。いや、正確に言うと、得意苦手などの意識の外で、体が勝手に反応してしまうのだ。地鳴りの音にびくんと肩が動き、噴火の音に横にいる彼氏さんにしがみつく。そうして何故か片耳を塞げば大丈夫なので、火山の近くにいるときは片耳を塞ぎながら歩く。

自分で異様な光景だと感じた。確かに夢の国は楽しい場所で、それを疑っていないのに、自分は片耳を塞ぎながら歩かないといけない。両耳で受け止めた日には、しばらくばくばくと動く心臓とともに過ごさないといけないからだ。その結果、数時間後には心身ともに疲れ果ててしまう。せっかく旅行に行ったのに音に疲れて途中で燃え尽きてしまうことは、過去に何度もあった。お祭りなどでもそうだ。

特にスピーカー音は、自然音にはない刺激を感じて厳しかった。おそらく録音されたデジタルな音は、アナログな音を加工しているので、どうしてもそぎ落として尖った感触に仕上がってしまうのだと思う。それを大音量で流すとなると、更にその尖りが突き刺さって気になってしまうのだ。普通の声とメガホンを通した声の違いを想像してもらえれば分かりやすいだろう。

 

どうして自分はこういう体なんだろう。これが、自分への違和感が強くなったきっかけだった。

「過敏」という言葉がまっさきに頭に浮かんだが、今までの人生で特にそうなったきっかけもなかったので、いまいちしっくり来なかった。打ち上げ花火の音が子どもの時から苦手だったし、どうにもビビりだった。出来事によりつくられた特性ではないのだ。

 

分からないまま時は過ぎ、そして昨日。

わたしは性格診断テストをしていた。よくツイッターで流れてくる16の性格に自分を分けて貰うあれだ。

わたしは内向的と外向的がいつも中間でブレがあり、その日はINFJという結果が出た。性格診断は通過点なので軽く流すが、信念を持った理想家という、わりと珍しい性格らしい。

じゃあどういう性格なのだろうと、ふと気になったわたしは、グーグルで検索をかけた。そうして出てきたのがこちらのnoteだ。

 

https://note.com/___yurari/n/n8342963cd07e

 

こちらの記事を一通り読みおわり、該当者が少ないゆえの共感になるほどと思っていたところで、この方のプロフィールが目に入った。INFJ/HSPとある。INFJは性格診断の性格なのだろうが、HSPとはなんだろう。

気になって検索をかけた結果、出てきた記事の中で分かりやすかったものを紹介します。こちら。

 

https://www.nippku.ac.jp/faculty/04/column/hpstowa/

 

こちらの記事でも触れられているが、HSPとは「気質」のこと。正確にはハイリーセンシティブパーソン、「人一倍繊細な人」という意味の頭文字を取った言葉だ。注意すべきなのは、病気ではないし、後天的なものでもない。

例えば、学生時代に周りから悪口を言われて、内気になってしまった。これは環境による変化であり、HSPではないようだ。

例えば、職場でうつになってしまい、それからは人一倍敏感に周りの顔色をうかがうようになった。これも変化によるものなので、HSPではない。ただし「HSPの特性で自己肯定感が低くなりやすく、うつになりやすい」ということはあるそう。

 

さて、そもそもHSPとは何か?

上の記事にもあるが、HSPとは、以下の4つの特徴を持った人のこと。わたしの体験談を交えながら説明していこう。

 

○考え方が複雑で、深く考えてから行動する

つまり、「考えるよりまず行動」「行動してから考える」という人は、HSPに当てはまらないということだろう。

わたしは新入社員として働いていた時、とにかく人に迷惑をかけないように気を配って行動していた。その結果、人に質問するにしても、発言するにしても、素早く返答をすることがとても苦手だった。進捗会議の時は前もって、あれを言ってこれを言うと頭の中に大体の台本を作っていた。

そしてわたしのブログに来てくれる人はご存じかと思うが、わたしは考察が好きだ。人の行動や感情の複雑性を深く考えることに楽しさを感じる。こういうのも当てはまるのだろう。

また、例えば道に石が落ちているとしよう。本来は「石が落ちている」だけで済ませられる話だが、「つまずく人はいないかな」「こんな小さいと近くの猫が間違えて口にしないかな」「それなら退けといた方がいいかな」と考えを発展させてしまう人は、これに当てはまるだろう。

 

○刺激に敏感で疲れやすい

つまり、渋谷のクラブで夜通しパーリナイ出来る人は、HSPに当てはまらないということだろう。

わたしは幼い時から驚きやすく、よく「ビビり」や「リアクション芸人」と言われていた。中学の時のあだ名は「次世代の出川」で、よく男子達に大声で話し掛けられ驚いた大声を返していた。これだけ書くといじめみたいだが、楽しい学生時代だったので問題はない。

良い刺激にも敏感だ。美しい芸術には感激してその素晴らしさを1週間は引きずるし、好みの創作を見た時には感動しすぎて腹痛になったりする。感動しやすい分心の動きが大きいので、人より疲れやすいということなのだろう。

 

○人の気持ちに振り回されやすく、共感しやすい

これはとても分かりやすい例がある。自分が席に座っているときに、隣の人が怒られた時の自分の反応だ。

まるで自分が怒られているような気がして、自分は関係ないのに傷付いたり胸やお腹が痛くなったりするのなら、これは当てはまると言えるだろう。そして、意識しなくても他人事に切り離せるなら当てはまらないと言えるだろう。

また、道端で何もなさそうなのにうろうろしている人に対して「あの人、困っているのかな?」「あの人、なんか怪しいな」と思ったことがあれば、人の気持ちに敏感であるということで、当てはまるだろう。

「人の気持ちに共感」とは、「わかる、そういうのあるよね〜」と言うことではなく、目の前で悲しんでる人がいたら自分も悲しくなり、怒られている人がいれば怒られているな、つらいだろうなと想像上のその人にシンクロしてつらくなるということだ。

 

○あらゆる感覚がするどい

これは冒頭に書いた夢の国の話がまさに当てはまる。

人間には視覚、味覚、聴覚、触覚、嗅覚という五感が備わっているが、HSPは人よりそれが敏感にはたらく。映画の爆発の音がうるさく感じる、満員電車の人のにおいがきつく感じる、大声にびっくりする、PCや蛍光灯のまぶしさが苦手でひどいと頭痛が起こる、枕や服の肌触りの良さが気になる、繊細な味わいの食べ物が好きでにおいや刺激の強い食べ物は苦手……など。ちなみにわたしはすべて当てはまる。

わたしはあつまれどうぶつの森を楽しんでいるが、レンガや石畳風のマイデザインを地面に敷くのが苦手だ。と言うのも、その上を歩いてもレンガや石畳の音がしなくて、耳に違和感を感じてしまうからだ。そういう五感をもとにしたこだわりがあるのなら、当てはまると言えるだろう。

 

この4つがすべて当てはまった人は、HSPと言える。逆に3つまで当てはまったとしても、すべてでなければHSPではないようだ。

わたしはこれを見たとき、とても驚いた。この妙に敏感な体質をしっかり研究している人がいることも、体質に名前が付いていることも。世界の広さに驚かされた。

このHSPの研究は今も進んでいるらしく、最近、このHSPの中でも内向的、外向的に分けられたり、刺激を求めるか求めないかで分けられたりしたらしい。そして色々見た結果、わたしは厳密にはHSPではなく、HSEだということが分かった。詳しくは次回にでも書こうと思う。

 

個人の個性はあまりカテゴライズされるようなものではないと思っていたが、悩まされていた自分の体質に名前が得られると、案外安心するものだ。

そしてこの体質は悪いところばかりではなく、良いところもある。五感が敏感ということはおいしいものをしっかり楽しめるし、良い音楽をしっかり味わい深く聴けるし、きれいな景色に人一倍感動できる。芸術を楽しめるのは良いことだ。

深く考えてしまう、深く感じてしまうということは、深くまでその面白さに浸れるということでもある。冒頭から悩みの話をしたのでネガティブに感じられてしまうかもしれないが、基本楽しく暮らしている。

……ただやはりと言うべきか、たくさんの人が忙しなく隣で働く会社員は合わないみたいなので、自分の身の振り方は考えたいと思う。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

気質であるなら楽しく良いところを生かしたいものですね。HSPか分かる診断もありますので、こちらもどうぞ。

https://hsptest.jp

「ふつう」ってなんだ?

久しぶりの更新だ。もう前回の記事で何を書いていたか忘れてしまった。もし前回、次回に引っぱるようなことを書いていたら、申し訳ない。今日からまた新しい考え事とかを載せていこうと思う。

 

さて、唐突だが、わたしは「普通」という言葉がすごく苦手である。「平凡」も同じくらい苦手だ。この場合の苦手は、嫌いというよりも、扱い方が分からない、正体が分からないというのが根底にある苦手である。

昔の話をしよう。わたしは一次創作の小説を書こうとした時、そこに登場させるキャラクターを考えていた。今まで考えてきた数々のキャラクターにはない要素を入れようとして、「平凡」なキャラクターを作ろうと思った。当時ラノベで平凡キャラクターが主人公のものは流行っていたので、そのノリで書ければいけるだろうと思ったのだ。

結論から言うと、そのキャラクターはボツになり、永遠の闇に葬られることになった。

まったくイメージが浮かばなかったのだ。平凡なキャラクターを書こうとしても、具体的なキャラクターが何も降りてこなかった。「平凡」がなんなのか分からなかったからだ。

考えていたのは学生のキャラクターだったが、特段目立たずにいる人か?いや、それは「目立たない人」であって、平凡とは限らない。テストで中間くらいの点を取る人か?いや、それは「テストで中間くらいの点を取る人」であって、平凡とは限らない。

平凡とは何か?……当時十代半ばだったわたしは、それに答えを出すことが出来なかった。靄がかかった雲のような存在になってしまったのだ。

 

大人になってから、人は自分なりの基準があって、それに則して「ふつう」を決めていることもあると知った。

わたしが精神病になった際お世話になった上司さんの、唯一苦手だったところは、そこだった。自分の常識を、こちらに当てはめてくるのだ。「考えればわかるだろ、ふつう」……何度言われたか分からない。

つまりそれが分からない自分は、上司さんから見れば頭が悪いということになる。けれど、こちらから見ればそれはわたしの「ふつう」だ。上司さんからの「ふつう」を浴びるたび、わたしは「ふつう」とは何か首をひねった。

 

ひとつ考えたのは、「ふつう」とは不変ではないということだ。変わりゆくものであるということだ。

普通。規則。常識。こうだと決まっているものは一度決められたら変わらないように見えるが、時に「価値観をアップデートしよう」という言葉が用いられるように、それらは変わることもある。

そして忘れてはならないのが、変わりゆくと言っても、風に吹かれて変わるわけじゃないし、水に流されて変わるわけじゃない。誰かが何かをしたことで変わるのだ。

行動によって「ふつう」は変わる。考えの発信によって「ふつう」は変わる。自然による働きかけによっても変わるだろう。

「ふつう」は、実は、すごく移ろいやすい。確固たるひとつの絶対的な何かではない。だからわたしは平凡なキャラクターを考えられなかった。あまりにも曖昧すぎて、定義が変わりやすいからだ。

 

それに気付いてから、わたしは「ふつう」という言葉を使うのをやめた。「ふつう」は、定義は曖昧だけど強く聞こえる言葉だと思ったからだ。

「ふつうこう思う」ではなく、「わたしはこう思う」。「ふつうにやってるよ」ではなく、「日常的にやってるよ」。具体的に言うように心がけた。

これは「ふつう」が苦手だからという理由もあるが、それ以上に、相手に誤解を与えたくないからだ。人と人との話し合いに「ふつう」を持ち込むと、必ずどこかで歯車が噛み合わなくなる。そして言われた側は、「そっちがふつうなら、こっちはふつうじゃないの?」という不満を抱くことになる。

人は基本的に、「ふつう」であることに安心する生きものだ。そうでなければ、「おかしい」という言葉は悪い意味で持ち込まれないだろう。……「おかしい」と言われたがっている人は除いて。

コミュニケーションに亀裂が入ると分かっているものを人相手に使おうとは、わたしは思えなかったのだ。

 

わたしが「ふつう」を使わないようにした理由は、もう一つある。

自分自身の「ふつう」が、相手を知る際に分厚いフィルターになってしまうからだ。これは人と話すときだけではない。本を読むときも、ニュースを観るときも、何にでも当てはまる。

「ふつうは」を頭に置くだけで、視野は一気に狭くなってしまう。「ふつう」を通した世界は、「ふつう」か「ふつうではない」かの二択でしか判断できないからだ。

そして「ふつう」に思考が支配されて、自分は何を見たいのか、考えたいのか、冷静に物事を見れなくなってしまう。頭の中で理解して整理するために、それは避けたいと思う。なのでまずは、そこにあるものをそこにあるものとして受け止めてから処理するように……を心がけている。出来ているかは自信がないが、そんな理由もある。

 

そして、いろんな判断を己の「ふつう」にすべて委ねてしまうと、たとえば自分が間違いを犯したとき、間違いを認められなくなってしまう。わたしはそれが怖い。「自分の中ではふつうなのだから、問題はない」「自分の中ではふつうなのだから、これは正しい」という考え方ほど、恐ろしいものはない。立ち止まって考え直すことが出来なくなってしまうからだ。

 

……大人になっていくほど、素直になるのが難しくなる。素直に「ごめんなさい」を言うような機会が、少なくなっているように思う。

それは、歳のせいなのだろうか。責任のある立場だから、なのだろうか。

どんどん「自分はふつうだ」と思う力が、強くなっているからじゃないか。「自分はふつうだ」という気持ちが、間違いを認めることにブレーキをかけているんじゃないか。

「ふつう」にとりつかれた者の末路は、少しでも自分と異なる意見や感想を見かけたらそれを悪だと思い込む、自称正義の者だろうか。思い通りにならない相手を最低だと罵る、自称被害者だろうか。

……ならば自分は、やはり「ふつう」を使わないでおこう。そう改めて感じる今日なのであった。

 

ここまで読んでくださりありがとうございます。

「ありがとう」と「ごめんなさい」を言える立派な大人になるのが、当面の目標です。

自由と忙しさと、えがお

彼氏さんが会社を辞めて、三ヶ月が経とうとしている。フリーランスとして駆け出した彼氏さんは、毎日MacBookと向き合う日を過ごしていた。

「通勤時間がなくて良い」「会社にいたときよりも早く時間が過ぎる」と笑ってこぼしていたのを聞いたとき、ああ、この人に後悔はないのだなと、そう思った。

 

ただ、その代わりに、「休みの日」という概念がきれいに消えた。月曜から日曜まで、前も、今も、彼氏さんに「休みの日」はない。あまり彼の仕事をまじまじと見ないようにしているけど、少し目を離した隙に、いつの間にか彼は手にスマホを持ったり、MacBookを膝に乗っけたりしている。三ヶ月、彼はおそらくわたしより、MacBookと向き合う時間の方が長かっただろう。フリーランスって、そういうものなのかな。

満員電車という拘束がなくなった代わりに、完全な自由時間はなくなったというわけだ。こういう生活を、彼は覚悟していたみたいだけど、わたしは理解してから受け入れなくてはいけない。この三ヶ月、それが少し大変だった。「今日、休みだからゆっくりしよ」が言えないのは、案外寂しいものだ。

 

良いことと、悪いこと。メリットとデメリット。背中合わせのように、ぴったりとくっついている。くっついているから、お互いの体温をじんわりと感じられる。

だいじなのは、そのメリットとデメリットが、自分に合うかどうかだ。そう言うのは簡単だけど、自分に何が合うかなんて分からない。だから多分、人は何をすればいいのか迷う。目の前の暗闇をこわがる。どこに突破口があるのかは、自分で探し出すしかないから。

誰かが決めてくれればいいのに。そう思いながら、決められた道はきっとつまらないから、自分で見つけたいと思う自分もいる。メリットとデメリット。背中合わせの体温。

まだ次の仕事が決まっていないこともあって、ぼんやりと枕元でそんなことを考えている。色んなことに興味を持ったり、色んなことに興味をなくしたりしながら、行ったり来たりをくりかえして、「あーあ、だめだな」と息を吐いて終わる。

 

それでも笑顔は忘れたくないから、彼氏さんといるときは、甘えて笑って切り替えようとする。

あーあ、だめだな。でも今はだめでもいいんだ。忘れなければ良い。忘れなければ、なんとかなる。やらなければいけないということを、忘れなければ。

落ち込んでも、泣いても、暇を潰していても、分からなくても、忘れなければ良い。そう思いながら、この何日かを過ごしている。明日はどうやって、この暗闇を進もう。

 

とりとめのない話になってしまいました。これも今迷っている証拠ですね。

涙で画面を滲ませながら、この文章を書いています。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

彼の笑顔の写真が、いつの間にかスマホに増えていました。きっと彼から勇気をもらっているのだと思う。

その不安は考えないと消えないもの?

一時期、「自分は恵まれているのだ」と事あるごとに思っていた。社会人になって少し経ったときのことだ。

トラブルらしいトラブルもなく、同期もそこそそ仲良くできて、職場にもトラブルはない。怒られることはあるけど、今自分がいる場所は、良いところなのだ。そうしてわたしは精神を病んだ。いつの間にか立っている場所が崩れ去っていたことに気付いた。

当時の上司さんに、その出来事を長い時間かけて打ち明けた。第一声は「バカ」だった。辛かったねも、頑張ったねもなかった。素直で率直な「バカじゃねーの?」だった。よく覚えている。

 

職場も悪いけど、好母ひおりも悪い。当時はそう言われても、そんなことないと思っていた。自分は「良い」と思っていたのだから、良いと思うことの何が悪いのだろうと。

しかし今考えると、あまりにも当時のわたしは、「自分で考えること」を忘れていた。

自分は恵まれている。どこが?デスクに座ることすら出来ないくらい体調が悪かったのに。何が?定時後にコッソリ呼び出されて曖昧に怒られ、改善の提案もルールだから仕方ないと受け入れられなかったのに。

何故?も、どうして?も、わたしは自分で考えていなかったのである。当時は本気で生きてたけれど、今思えばばかばかしい。本気で生きれば良い訳ではないのだ。考えた上で気楽に本気で生きないと空回って終わるのだ。

 

そして今。気楽に本気で、これからどうするか考えている。むだに焦る必要はないし、むだに他人に口を出すこともない。疲れるだけだから。どの情報をシャットアウトするのかを考えながら、日々を暮らしている。

SNSはすぐに焦ったコメントをしてしまいそうなので、心に余裕のある時だけ見る。テレビは攻撃的なコメントに溢れて判断力が鈍りそうだったので、好きなバラエティ以外は基本観ない。こういう時だからこそ、毎日のお笑い番組を楽しみにして生きている。画面越しの楽しみは、いくらでも笑っていい。何も気にすることはない。

中途半端な、前の見えない不安は、考えると更に見えなくなっていく。真っ暗い闇のもやだけが増幅して、はっきりとしたものは何も残らない。中途半端な恵みを盲目的に信じていた自分と、同じ結末になりそうなように思えた。

人は学ぶ生き物だ。当時の自分は「バカ」だったから、そうならないように考えて動こうと思う。あの時自分をバカと叱咤した上司さんがいてくれて良かった。

 

情報を入れないこと。情報を遮断すること。

これだけ書くと「それこそ考えなしだ」「情報が少ないのに考えることなど出来やしない」と思われるかもしれない。

ならば、こう書こう。余計な情報は入れない。余計な情報を遮断する。これは自分が冷静になって考えるために、必要なことだ。

ニュースは、常に新しい何かを発信しなければならない。それが仕事だからだ。けれど、わたしたちはそうじゃない。わたしたちが情報を仕入れるのは、仕事でもなんでもないし、義務でもない。そして、情報に踊らされてむだを掴んでしまったら、まさに本末転倒だ。

 

ひとつ、考えてみてほしい。今あなたが収集しているそれは、「考える為に必要な情報」なのだろうか。

噂ではないのか?個人の感想なのではないか?その言葉のどこに事実があるのだろうか。

 

そして何より、その情報を受け取ったら、あなたはどうするつもりなのだろう。

一番大事なところは、そこだ。考えることが大事なのではなく、何を考えて動くのかが大事だ。

 

あなたが何かを思うことは簡単に出来るけど、その思った通りに動くことはあなた以外の誰にも出来ない。

そしてその動くきっかけを、「不安」にだけはしてはいけない。「えっ!やばい!」「まずい!やらなきゃ!」という心の声にしてはいけない。不安は衝動的なもので、感情的なもので、かなり極端に言うと、「考えていない」と同じだからだ。情報のお客さんになってはいけない。

その為に。不安を配るチラシを受け取らない為に、情報を遮断する。これは手段のひとつだと思う。

 

今、抱えている不安を消去する為に必要なのは、情報を集めることなのだろうか。わたしはそれを疑いたい。

不安を配っているところから、意図的に離れる。わたしも、きっとあなたも、それはたぶん、しても良い。難しいようなら、息抜きくらい、しても良い。

「息抜きなんて出来ない、情報を集めていないと落ち着かない」という人は、情報の中毒になっている可能性もあるので、気をつけた方が良いかもしれません。足元が崩れる時は、本当に前触れなんてないですよ。これは自戒も込めて。

 

不安を餌にした釣り針に釣られないように。

決められたことを踏まえたうえで、自分自身でどうするか決めて、自分自身で考えるようにしたいものですね。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

不安を考えないように、考えないことを考える。複雑ですね。

 

 

自分で考える、ということ

お久しぶりです。好母ひおりです。
リアルが慌ただしくいそがしく、一息つくまでブログの更新はやめておこうと思ったのですが、ひとつだけ、どうしても気になる事がありました。自分的にはかなり驚いたので、このひとつだけ、今のうちに書いておきます。

某日。彼氏さんと買い物に行った帰り、ポストの中に黒いビニールの包みがちょこんと入っていた。かたちからして、何かのケースでも買ったのかと思ったけれど、わたしはそんな通販をした覚えはない。一瞬二人して首を傾げてから、ああ、と彼が納得したように言った。


「そういえば本を頼んでおいたんだった」


彼氏さんの棚には少しの本が並んでいる。それも、すべてビジネス書のジャンルだった。以前、人を言葉で操るにはという名目の本を見せて貰ったことがある。話を聞いてみると、いつも見てるブログや動画のユーザーが本を出したときに買っているらしい。
なるほど。小説やゲームの設定本が並ぶわたしの本棚とは、まるで傾向が違っていた。


そうして家に戻った後、袋の封を開けると、それは200ページくらいありそうな分厚い本だった。


「こういうの」


彼氏さんが表紙を見せてきた瞬間、わたしに稲妻が駆け巡った。


「えっ!?」


そこには本の題名が書いてあった。
「自分の頭で考える本」。タイトルはうろ覚えであるが、本の紹介をしたい訳ではないので、これで行きます。
その時のわたしはもう見るからに狼狽えていた。見るからに動揺していた。見るからに混乱していた。


「じじじ、自分の頭で考える!?自分の頭で考える事を他人の本から学ぶの!?」
「うん、そうだけど……」
「自分の頭で考えるって自分の頭で考えるから自分の頭で考えることになるんじゃないの!?」


書いているとすごく意味不明な言い分だ。ここに関してはあまりにショックが大きすぎて、思ったことをすぐに口走ってしまった。ここは反省します。
つまりはこういう事を言いたかった。
自分の頭で考える行為……つまり思考と言えるだろうか。思考は、自分自身で考えて深めていく事によって、その精度を上げていく。もし人が思考の精度を上げたいと思ったとしたら、それしか方法はないと思っていたのだ。
何故なら、たとえ本で学んだとしても、それはいわゆる暗記的な受験勉強に過ぎない。実生活で使うには、かえって思考の幅を狭めてしまう危険性がある。「こういう時はこの考え方をする」と一度思い込んでしまったら、方向転換がきかない。知識ではなく思考という面において、それはかなり危険なことだと思う。


混乱しながら本の中身に軽く目を通してみたが、使っている言葉と考え方のジャンルがわたしとかなり違っていたので、すぐに机に置いてしまった。知識として吸収するなら良いかもしれないけど、これを本当に思考の参考にしようとしたら柔軟性がなくなってしまいそうで怖いなあ、と思った。
おそらくはわたしのこの考え自体、本の求めてる客層とは違うのだろう。初めは戸惑ったものの、それはそれで置いておくことにした。彼氏さんも今の自分の思考を変えたくて、本を買ってまで試行錯誤しているのだろうし。
……自分で言っておいて何だが、「思考を変える」って何だろう。また考えようのあるテーマだ。

 


その夜、お風呂の準備をしながら、こんな話をした。


「わたしは多分、本として読むなら哲学的なものが好きなんだと思う。それこそ、考えるコツよりも、何故人は考えるのかってした方が興味あるなー」
「ふーん……。それって何の役に立つの?」


えっ。


人間についての理解が深まるし、それが自分が考える時の参考になるとか……?」
「あー、そういう事か」


咄嗟に返してしまったし、相手も納得してくれたので、この話はここで終わってしまった。
しかし後になって考えれば、あれはものすごい建前ちっくな答えだった。と言うのも、考えてるとき、または考え終わった後に「これは人間への理解が深まるぞ〜」とか、「自分が考えるときの参考になるぞ〜」とか、一度たりとも思っていないのだ。
何かの役に立たせよう、立とうと思って何かを考えてはいないのだ。
そこにものがあるから考える。そこに疑問があるから考える。もっと分かりたくて、分かりやすく整理したくて、さらに深くまで考える。
何というか……スポーツみたいな感覚だ。ランナーが1秒でもタイムを縮めたいのは、何かの役に立つ為ではない。己の限界への挑戦だ。もっといける、さらにいける、と奮い立たせる。その先の境地へと、辿り着くために。


わたしにとっての「考える」とは、それなのだ。何かに対しての手段ではなく、もっと根本にあるものだ。だからこそ、あの本とは相容れなかったのだろう。
こればかりは考え方の違いなので、どちらが善悪とは言えない。ただ、これは世の中のどんなものもそうだと思っているのだけれど、善悪で分けられないところに、面白いものは息を潜めて眠っている。声を上げないのでとても分かりにくいけれど、見つかると面白い。
また時間があったら、もっと具体的な違いを考えたいなあ。

 


最後に、わたしが「考える」を考えるきっかけになった、一番大きな話を書いて終わります。


数年前、病んだ精神を立て直していく過程で、わたしは会社のある上司さんにとてもお世話になりました。少しずつ心身が回復していった途中、会社に数人後輩が入ってきました。そんな時の話です。


「この定理の証明をしてみろ」


上司さんは定理の名前をホワイトボードに書き出した。高校で文系を選択していたわたしには、とても聞いたことのない名前だった。後輩達と目を合わせる。みんな知らなそうだった。ちなみにカタカナに弱いので、その定理の名前は今は忘れてしまった。
課題が出た後、みんな一斉に、インターネットのグーグル検索で調べはじめた。その証明の答え自体は、すぐに見付けることが出来た。各々これだろうというものを報告しようとする。


「証明は、答えを書くだけじゃダメだ。なんでその答えになるのか説明してもらうぞ」


これが本当に難問だった。この数式は、こういう解き方をして、こうなるので……と、答えの一行一行を説明していかなければならない。
答えを写すだけではダメ。説明が不足していてもダメ。そして、穴があると「なんでそうなるの?」と質問も入る。「それだとここと矛盾するよ」と何度もやり直しを食らう。
多分、人生で一番頭を使った。話している最中、数秒前に何を言っていたか忘れる。情報の質量があまりにも多すぎるのだ。整理しながら話をするって大変だと初めて知ったかもしれない。
これでなんと、二日経った。誰かが説明出来るまで終わらなかった。
何故そうなるのか。何故それが成り立つのか。深くまで考えていく。一行一行、答えの辻褄が合うように。終わりのないパズルを組み立てていく感覚だった。
そうして、わたしは後輩の助けもあって、何とか説明に成功した。
充足感。達成感。計り知れなかった。しばらくは、放心していた。


その後、こうも思った。「考えるって、こういうことなんだ」と。
物事を細かく分解し、どうしてそうなるのか、どうしてそれが成り立っているのか、疑って解析していく。物事をただ受け止めて何かを言うだけじゃ、考えたことにはならない。
本当にそれは正しいのか。本当にそれは、今自分が思っている印象が全てなのか。全てだとしたら、それは何故なのか。
「考える」ことは、思っていた以上に、身体の底に染み付くものだった。


すべてのことに、自分なりの説明を持てること。考えることの最高の境地としては、ここなんだろう。でもそれは難しいから、自分の手で何を考えるのか選んでいくのだろう。
それを、自分の頭で考え、自分で思ったからこそ、実感として深く感じることができる。そう思います。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
人生で何を経験したか、たくさん語れるような人間になりたいですね。

病は、自分と戦う、ということ

風邪を引いた時のことをふと思い出した。ひどい熱が出た時、「今身体はウイルスと一生懸命戦ってるんだから、寝てなさい」と母親によく言われた。

横たわって熱さまシートを張る間、頭がぼうとして、身体が痛んだ。これが、病と戦っている証拠か、と内心頷いたのを覚えている。

 

寝るとき。静かなとき。買い物に行くとき。料理をしようとしたとき。その「ウイルス」は、わたしの中で蠢くのを感じるのだ。

「早く仕事を見つけないといけないのに、こんなことをしていても良いのか」

「早く見つけないと、お金がなくなってしまう」

「こんなに堕落的な生活をしていて良いのだろうか」

わたしの中にいるわたしは、常に声を上げている。それはもうひっきりなしに。りりりり、と窓の外で鳴く鈴虫よりも騒がしい。

思えば仕事中もそうだった。わたしは求められている仕事が出来てないのではないかと、常にわたしに向かって訴えていた。誰に言われるでもなく、わたし自身がずっと言っていた。

そういうくせはもうやめようと思っていたのにな。と言う自分と、なかなかそうはいかないだろと呆れる自分もいる。わたしが常に五人くらい、わたしの中で会議をしている。やめてくれないかなあ、と思っても、なかなか終わりは見えない。恐ろしいことに。

 

その会議に他人が入ってきた瞬間、勢いよくパンクする。実家ではよくあった。

ああしたら、こうしたら、こうしなさい、こうした方が良い。

それが、調子が悪いときのわたしにはこう聞こえる。

ああしろよ、こうしろ、こうしろ、こうしないと状況が悪くなるぞ。

提案ではなく、強制と脅しに聞こえる。もしくは過剰な期待。ねじ曲げて受け取ってしまう自分に、恐怖を感じずにはいられない。これは実家とSNSから距離を置いたら、かなり改善された。しかし家にひとりでいるとひとりでいるで、わたしの中の会議がうるさい。難儀なものだ。

 

この現象は、彼氏さんが家に居ると一気に起こらなくなる。彼に「どうしよう」や「つらい」や「今気持ち悪くて……」と打ち明けると、ごちゃついた会議がすーっと解散されていくのを感じるのだ。

彼は大抵「どうしようね」と返す。それだけなのだが、「それだけ」がわたしにとってはありがたかった。

わたしは、ツイッターにも、友人にも、滅多に「つらい」「苦しい」と話さない。「どうしよう」は言えるけど、切羽詰まった顔で言えない。「さーて、どうしようかな」くらいのノリが精一杯だ。

何故だか言えないのだ。他の人の「つらい」は聞けても、自分から話すことはどうもはばかられてしまう。心のどこかで言う必要がないとか、言っても解決するわけじゃないとか、そういうひねくれた好母ひおりがいるのかもしれない。かっこつけかもしれない。

 

それでも自分の管理は自分でしていくしかない。どんなにひねくれてもかっこつけていても、我慢していればいつか倒れてしまう。9月の中ごろのわたしのように。

彼氏さんはそういう意味では、ウイルスと戦うための場所を用意してくれていた。言葉も思考も、結局は自分で自分と戦いながら、これだというものを掴んでいくしかない。しかし、場所がなければ出来ることもない。場所を用意してくれるというのは、本当にうれしいし助かることなのだ。

病は、自分と戦うということだけれど、ひとりで戦うとはノットイコールだ。それは忘れないようにしたい。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

病は、だけでなく、人生は、とも言えそうですね。

 

※追記

自分で読み返して、負の感情を言えない理由に気付きました。ああ、順序が逆なだけですね。

ああしたら、こうしたら、と言われるのが怖いから、言えなかったのですね。かっこつけでもなければ、ひねくれでもなく、ただの自衛手段を選んでいたのかと。

友人やツイッターに「つらい」「疲れた」と言えるようになったら、元気になったと言えるのかもしれません。