次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

改めて、彼氏さんとのはじめまして

そういえば、彼氏さんとのなれそめって、まだブログだと書いたことなかったような気がします(今まで小出しにはしてきたけど)。3か月ですしそろそろ1回書いておきたいなと思ったので、今ちょっとだけ書きます。今回も少しフェイクを入れていますが、ご了承ください。


まず、二人が出会ったきっかけから。二人が顔をあわせたのはいつか。
合コン、ナンパ、お見合い、婚活……男女の出会いの方法はいくつもあると思いますが、どれも違います。そもそも、男女を意識するような場所では会っていないのです。


わたしは、正直な話をすると、そういう合コンだとかは人生で一切参加したことがありませんでした。大学も通学に1時間半かかる場所にあったから早めに帰ってたし、サークルにも入っていませんでしたからね。
わたしはいつ、結婚するのだろう。そもそも、結婚なんてするんだろうか。相手も出来る気しないし、出会い系サイトはちょっと怖い。合コンも、そういうノリについていける気がしない。
大学生のとき、バイトの後輩くんに惚れて、お弁当を作ったり必死にアタックして、告白したけど大玉砕した。告白までした恋愛は、それ一度きりだった。それから恋愛にあまり興味もなくなったし、わたしはずっとこれから独り身なのかな。まあ、それもそれで、気楽に暮らせるからありなのかな。わたしは好きになったら盲目的に突っ走ってしまうから、好きになってもらう方がうまく進むんだろうけど、今まで誰かに恋愛的な意味で好かれたこともないしなあ。


だいたい、こんなことを思っていました。自分が恋愛することは、まったく考えてなかった。自分が誰かと恋愛することの想像も出来なかった。恋愛が嫌だとは思ってなかったけど、機会もないしな、がっつくものでもない気がするし、と、違う楽しみに満ちた日々をのんびり送っていた。

 


※ここからは、彼氏さんの証言を元に、再現文章を書きます。わりと細かく事情は聴いたので、おおよそ合ってると思います。(フェイクは引き続き入れています)

 


1年半離れていた職場は、相変わらず見慣れた顔触れが揃っていた。支店に派遣されていた自分が、本社に戻ることが決まって、1週間くらいが経っただろうか。まだ異動はしないけど、戻ってくる挨拶がてら飲み会に来ないかと、先輩に誘われた。
親しい客先との合同飲み会らしい。飲み会は嫌いじゃないから、すぐにOKを出した。


当日。早めに入った自分は、会場の奥の方に座った。すると、緊張した様子で、隣に女の子が座った。見慣れない顔だから、客先の子だろうか。正面に座った須田(仮名)さんと、女の子同士親しげに話している。


その顔を一目見たとき、かわいいな、と思った。こんなことは初めてだった。前に付き合っていた彼女は、そんなことなかったのに。
話しかけるタイミングもなく、飲み会が始まる。


「10月から戻ってくることになりました。その、業務忘れてるところがありますけど、よろしくお願いします」


先輩も後輩も集う場で、改まってそう挨拶すると、どっと笑い声が上がった。一仕事を終えたので、あとは飲み会を楽しむだけだ。端っこの方に座ったから、先輩に変に絡まれずに済むだろう。
隣の子は、今回のような飲み会は初めてなのか、他の人に話しかけられ始めた。


「何月から入ってるんだっけ?」
「7月の途中から、お仕事させていただいています」
「そうなんだ、名前は?」
「好母です。よろしくお願いします」


好母さん。1年半今の職場には行ってなかったから、知らない顔なのも無理はない。好母さんっていうんだ。
好母さんは、ずっと須田さんと話したり、須田さんが横の人と話すのを聞いたりしている。女性と話すようにしてるから、自分と話すタイミングがない。ちらちら見るけど、目が合う様子もなかった。
結局その日は、1回も話しかけられなかったし、話しかけなかった。


好母さんがいる客先とは、週に一度の木曜日、合同で打ち合わせが開かれる。時間は大体30分から1時間くらい。好母さんを見られる唯一の時間だ。
本社に戻ってから、その週に一度の1時間が、毎週の楽しみになった。自分から話しかけられないけど、好母さんを見られるのが嬉しかった。
いつも一生懸命メモ取ってる。
今日のところは話が難しいから眠そうだな。
一応打ち合わせ中だからじっとは見ないけど、ちらちらと目で追っていた。
たまに、業務の都合で、打ち合わせが中止になることもある。その時は、すごく落ち込んだ。好母さんの顔を見るために1週間頑張ったのに、また1週間後にならないと好母さんが見られないなんて……。


好母さんと、できれば、お付き合いしたい。でも、こんなにかわいい人だったら、もう彼氏いるだろうな。
訊いてみたいけど、話しかける勇気がない。見てるだけで幸せだし、このままで良いかもしれない……。

そう思い続けて、いつの間にか3か月が過ぎた。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
そこそこいろいろあったので、再現文章はもう少し続きます。毎週1時間で合計半年繋げたって話を聴いたとき、好母さんはすごく驚きました。

「幸せ」は一体どこにある?

質問です。「あなたは、幸せですか?」

この問いかけをしたら、おそらく三者三様の答えが返ってくるのではないでしょうか。ちなみにわたしは、幸せです。なので、今日のこの記事を書こうと思いました。幸せを感じずして、幸せの在処は書けないからね。

 

では、まず、「幸せ」って何でしょうかね。

暖かくて、胸に心地良い波のように広がるもの。あ、わたし今、幸せだ、と感じること。とても良いものだから、世界中の人が、探したがります。

どこにあるのだろう。何に隠れているのだろう。わたしはどうすれば、幸せになれるのだろう。

幸せになりたい。幸福になりたい。だから、掴み取りたい。だから、手に入れたい。

「幸せ」を人生の目標にする人も、いますよね。

 

じゃあ、どうしたら幸せになれるのでしょう。

……。

……この問いかけを聞いて、あなたはどう思いましたか?

何も思わなかったなら、ないで、良いと思います。そこが知りたかったと思う人もいると思います。

でも、これを問う前に、まず考えなければならないことがあるのです。

 

幸せは、「なる」ものか?

掴むものか。「なる」ものか。「手に入れる」ものなのか。幸せって、そもそもそういうものなんでしょうか?

実は、答えは、すでに前に書いてあります。少し前に、遡ってみましょう。

「あ、わたし今、幸せだと感じる」。幸せは、「感じる」ものです。「感じる」ということは、つまり、目に見えないということ。

目に見えないものを手に入れることは出来ません。形のないものになることは出来ません。わたしは幸せを知っていますが、幸せを手に入れてはいませんし、持ってもいません。

わたしは知っています。わたしが、どういう時に幸せを感じるのかを。わたしが、何に幸せを感じるのかを。わたしは、「自分が幸せに気付く瞬間を、知っている」のです。

 

ここからが、今日の本題です。

幸せとは、気付くもの。幸せとは、知るもの。自分は幸せにいつ気付くのか、知るもの。

逆に言えば、「気付かなければ、分からない」のです。自分にとっての幸せを知らないと、いくら一般的に「幸せを感じる」ことが起きたとしても、自分がそれに気付かなければ、感じられないものなのです。

気付くには、あ、自分はこういうとき幸せなんだ、と、知る機会が必要になる。その機会は、誰かの声を聴いたり、誰かの顔色をうかがったり、誰かのことを考えているうちは、決して訪れない。「誰かの笑顔が見るのが幸せ」というのも、「自分が幸せ」なのが終着点でないといけない。義務と幸福は違うのですから。

 

気付くことに必要になるものは、裸一貫の自分の心と、ひとりの時間。ただそれだけです。誰かがいてはいけない。何かがあってはいけない。自分のことは、何か別のものがあったら途端に気づきにくくなります。必要最低限のものだけ揃えて、初めて気付けるものもあります。多くが良いとは限らない。なぜなら、少なくて大切なものが見えなくなってしまうから。

ここで、一番大切なことを書きます。

「誰かが幸せな姿を羨ましく見ているうちは、自分は決して幸せを感じられません」。

自分で、気付くものだから。自分で、知るものだから。あなたの幸せを知るのは、あなたしかいないのだから。誰かの幸せと自分の幸せが偶然一致することはあっても、自分の幸せを知らなければ、それは分からない。

探すのではない。気付くのだ。今そこに落ちているかもしれない。隣にあるかもしれない。どこにあるかは分からないけど、今あなたが今の生活に不自由を感じていないのなら、絶対にどこかに落ちているはずなのです。

 

ひとつ、間違えてはいけないのは、「自分はこれをしている時が幸せであるべきなのだ」という考え方。これは、幸せではありません。これは、何かのための義務です。

これに幸せを感じているからこそ、自分という人間なのだ。それは、幸せではありません。自分のアイデンティティに、執着しているだけです。

幸せは、設定するものではありません。幸せは、人間のステータスでも、パラメータでもありません。歩いてきた道を振り返ったときに、初めて輝いて見える、歩いてるときには気付かなかった小さな花のようなもの。人を豊かにするものです。人を縛るものではありません。

 

幸せが見つからない。幸せなんてどこにもない。そう思っている人は、今の自分を振り返ってみてください。足を止めて、裸の自分と向き合ってみてください。

誰かと比べていませんか。誰かを気にしていませんか。誰かにしがみついていませんか。

あなたの幸せは、あなたにしか分かりません。あなたが気付き、知るものです。誰かに与えられるものでも、待っていても上から降ってくるものでもありません。

幸せとは、目に見えないものなのですから。そこにあっても、気付かない限り、分からないのです。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

失って初めて気付くっていうのは、つまりそういうことなのかもしれないね。

 

 

三ヶ月と、倦怠期と、自由。

この文章は深夜に書いてるので、多分、ちょっとしんみりします。とりあえず、それはお知らせしておきます。日中動いた後で、少し疲れた状態なので。あと、今日は自分ごとが強い話をするので。

今回の土日、彼氏さんとお付き合いして、三ヶ月記念でした。お祝いをしようということで、映画を観て、おいしいご飯を食べて、ご飯をつくって、翌日も朝昼晩とつくって、ゆったりと過ごせました。
よく、「三ヶ月のカップルは、倦怠期になるぞ」ということを言うので、わたしは内心びくびくしていました。わたしは彼氏さんが初めての彼氏さんだったので、「倦怠期」はまだ未経験です。
いつ、来るのだろう。急に、大魔王みたいに空から降ってくるのだろうか。何気なくいつの間にか扉を叩いているものなのだろうか。獣のように雄叫びを上げて突進をしてくるのだろうか。そんな不安を胸に抱きながらこの一ヶ月くらいを過ごし、あれ?と首を捻りました。


「なんか、それっぽいの全然来ないな」。
いや、ほんとなんです。こんなブログでお付き合いしましたと言った手前、すぐに冷めましたとか言ったらコンテンツ的にやばい、とかではないんです。今も付き合い始めも、気持ちは変わってません。変わったかもしれないけど、根底にある信頼は、まったく揺らいでいません。木の根のように、腹の底にしっかり伸ばして埋め込まれている。
堂々と、好きと言えますよ、まだ。いつか言えない日が来るかもしれないけど、今、胸を張って一番好きな人だと言えます。


三ヶ月記念のお祝いで行ったちょっとお高いハンバーガー屋さんで、こんなことを言い合いました。
「三ヶ月過ぎましたけど、好母ひおりに対する意見や要望はありますか?」
彼氏さんの答えは、「ない」でした。彼氏さんも、わたしに「ある?遠慮せずに言って良いよ」と言いました。わたしの答えも「ない」でした。
これは、一ヶ月置きにやろうとわたしが決めたことです。お互いに言いたいことを言うために、機会を用意する。答えが「ない」だから、次は飛ばそうとか、思ってません。流石に半年経ったら延ばそうかな。
彼氏さんは、無口でおとなしい人ですし、この三ヶ月で分かったことですが、悩みやすい人でもある。言いたいことをすぐに伝えるのが苦手な人です。そんな人が普段の会話で何か不満を抱いて、タイミングを逃したとき、膨らんでいく一方になる。そう思って、改まった機会を設けています。
わたしは思ったことをすぐに言っちゃうけど、彼氏さんは違う。同じかもしれないけど、お互いのことは本当の意味では分からない。
分からないから、言葉がある。話せば通じると思ってるから、彼氏さんとお付き合いをしてる。だから、設けています。お互いに気持ち良く過ごすために。


実際、彼氏さんといるときは、家族といるときより正直楽です。話せば分かってくれるって、楽なんですよね。たとえ、部屋が狭くて、お風呂もキッチンも一人用だから窮屈でも、不思議と「自由」を感じるんですよ。空間的な広さは家のほうがずっと勝ってるのに。
ああ、「自由」って、「自分の場所が広い」とか、「自分に都合良く事が進む」とか、「思い通りになる」とかじゃないんだなあ。「自分がやりたいことを、何も気にすることなく、宣言出来る」ことなんだなあ。何も言わずに事が進んでも、つまんないもんね。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
さて、いつ倦怠期は来るのかな?と、実はちょっとだけ楽しみな自分もいる。

「人間は不完全である」の証明

これはちょっと気を抜くとすぐに忘れてしまいそうなので、今ここに書いておくことにした。今週更新できてないし、挽回ってことで。

今日は、「人間は、不完全だ」という話をします。ただそれだけの話をします。今日の時点だと、多分そこから話は広がらないと思っています。続きはいつか書くかもしれないけど。


色んな物語の中で、「人間は、不完全だ」ということが叫ばれてきました。物語じゃなくても、現実でも、わりとよく見たり聴いたりするような気がします。わたしも、人間は不完全だと思っています。


ではまず、「完全」って何なんでしょうか。
完全とは、それだけで完成されていて、何の手も出しようのないくらい、完璧であることだと思っています。非の打ち所がない、とも言いますよね。何の文句も付けようがない。良いことしか並び立てられないでしょう。不満があった時点で、それは「完全」ではないのですから。
そう考えると、人間は不完全ですよね。誰もが誰もがに強い好感、もしくは嫌悪を持ちます。その時点で、人は誰もが完全ではないと言えます。


では、人間は、どうして不完全なのでしょう。
これ、答えは結構簡単で、「ひとりひとり、違うから」です。違うということは、完全ではないとも言えます。何故なら、完全とは、「それひとつで完成されている」からです。隣のものとひとつ違いがあった時点で、それはもう「不完全」なのです。「不揃い」と似たような意味と捉えることもできると思います。
生きものって、大抵不完全ですよね。体の形からまず違います。性格も違います。だからこそ、秩序というものがあるのでしょうね。最初から完全だったのなら、統一させる必要がないのですから。


育ってきた環境。かけられてきた言葉。見てきた景色。そういうもので、生きものは変わっていきます。変わるということは、不完全と言えるでしょう。「それひとつで完成されている」のが、「完全」ですからね。


それでは、今日の本題にいきましょう。
「あなたは、人間が不完全であることは、良いと思いますか?悪いと思いますか?」


ここまで読んでいただきありがとうございます。
今、あなたが思ったこと。それが隣の人と違うことこそ、人間が「不完全」である証明です。

風通しは勝手に良くならない。

仕事が忙しさのピークなので、ブログがついさぼりがちになってしまいました。すみません。あと二日くらいで落ち着くはずなので、頑張ります。

でも、「仕事が忙しい」のだけれど、不思議と、「仕事がつらい」「仕事がいや」とはあまり思わないのよね。それは、今一緒に仕事をしているひとたちが、わたしという人間としっかりコミュニケーションを取ろうとしてくれてるからだと思う。
かつてのわたしは、上司に質問することが出来なくて、遠慮して、落ち込んで、それで成果が出せなくて、怒られての無限ループだった。もちろん精神と体調が悪くなったのはそれだけのせいじゃないけど、今いる人たちは間違いなく、「質問しても大丈夫だと思える空気」をつくる努力をしている。


たとえば、分からないところがあったら、初歩的なことでもしっかり一から、嫌な顔をせずに教えてくれる。これに関しては前に「それって、すごいことだと思います」と言ったら、「だって、それも仕事だし」と返ってきたのが忘れられない。
そう、忘れてはいけないけど、仕事なのだ。人に仕事を教えるのは、仕事であって、ボランティアでもなんでもない。教える側がしっかりと教えられなかったら、それは、上の人の責任でもあるのだ。
現に、わたしが理解できないようだったら、今の職場の人たちは言い方を変えてわかりやすく教えようとしてくれる。これも、スキルで、努力だ、と思った。


昔のわたしは、そういうことが全然分からなかった。自分が理解できないのは、全部自分のせいだと思っていた。自分の頭が足りないからだと思って、自分を傷つけてばかりだった。
でも、それは違うのです。「分からない」ということは、どちらか一方が悪いわけではないのです。じゃあ、分かるためにはどうしたら良いか。じゃあ、どうしたら分かるようになるのか。必死に知恵とアイデアを絞って、「人に教え、教わる」スキルは、きっと上がっていく。


上司に教わるタイミングがひたすら分からなかった時代。お世話になった上司さんは、わたしの話を聴いて、こんなことを言いました。
「タイミングが分からないなら、タイミングをつくってやれば良いんだよ。たとえば、今から30分はひおりちゃんのための時間にするからって伝えておく。そうすれば、後腐れなくきけるでしょ?物事っていうのは、そうやって解決していくんだよ。悪いって責めてたって始まんないでしょ。そういうのは、上の人間が考えるんだよ」
とにかく自分が何とかしないと!と思っていたわたしは、目から鱗があふれ出したのをよく覚えています。
居心地の良い場所とは、自然とつくれるものじゃない。良くしようと思う気持ちと、具体的な考えと、行動の繰り返しがあって、初めて成り立つ。
これは、忘れてはいけないことのひとつです。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
「良い職場」は、「良い職場」にしようとした人たちの、汗と言葉の結晶だ。

誰もは望まない、人生100年

人生100年時代」という言葉を、最近よく聞くようになった。老後に2000万円必要だということが話題にあがってから、更によく聞くようになったような気がする。なんで100年になったのかはよく知らないけど、やっぱり医療の進歩とかなのかな?

でも、こうも考える。「80年生きるより100年生きる方が、よい時代なのだろうか」。
100年生きることって、「良いこと」なんだろうか。長く生きられることって、「良いこと」なんだろうか。これを問われてすぐに答えを出せる人は、すごいと思う。わたしは、「人による」としか言えない。
ちょっと前から、「生きるための技術はどんどん進歩してるのに、死ぬための技術はどうして進歩しないんだろう」と考えるようになった(もしかしたら進歩してるのかもしれないけど、広く知れ渡っていない)。ほうっておいたら、人間、死ぬから?……けれど、死に方を選ぶって、素敵だと思うんだけどなあ。だって、自殺って、たいていは死に方を選べないからするものだよね。どうしようもないから、何かに任せて、死ぬんだもの。「死に方を選ぶ」これだけで、人はもっと豊かになれる気がするんだけどな-。生き方を選べるなら、死に方だって選びたい。死ぬまでが人生なんだから。


仮に、100年生きるとして、何が出来るのでしょうね。これは、「1億円あったら、何が出来るんだろう」と考えることと、ほとんど同じなんですけど。
最近は料理をよくするから、何回フライパンをかえるんだろうとか、何本のにんじんを食べて、何個のたまねぎを食べるんだろうとか、そういう想像が膨らんでいく。わたしは、何をして100年を生きていくのだろう。やりたいことは、たくさんある。今はとりあえず料理がしたい。あと何回、料理ができるのだろう。
わたしは今、人生100年という言葉を信じるなら、もうすぐ4分の1のところまで来ることになる。この数年は特に早かったから、これからもっと早くなっていくんだろう。


残された人生、どう生きる?
わたしは、どう生きていく?


そう考え始めると、なんだか100年が短く思えてくるから不思議です。これから生きていくうちに、やりたいことはきっともっと増えていく。新しいことを知って、あれもこれもと欲張りになっていく。
多分、その欲がなくなってしまったら、考えられなくなってしまったら、人生は途端に楽しくなくなってしまう。何年も何も考えずに寝っぱなしになるなら、死に方を選びたいなあと思う。楽しい1年と楽しくない1年は、感じ方に雲泥の差がありますからね。
結局、長く生きることよりも、楽しく生きる方法に頭を悩ませた方が良い。楽しむための方法があって初めて、人は「人生」を生きられますから。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
「不老不死になっても動けなければ意味がありませんから」ってフリーザも言ってたしね。

「俺のスカート」は、ここにあった

好きなドラマがひとつ終わってしまった。終わってしまったとは言いつつも、とても良い終わり方をしていたので、喪失感とかは特にない。終わったときに「良いものだった」と余韻が残る作品は、良い作品だと思う。

昨日最終回を迎えた、「俺のスカートどこ行った」。略して俺スカは、第一話から楽しみにしていたドラマでした。土曜夜のドラマは、コミカルテイストながらも味わい深いものが多い印象だったので。予告で何だか面白そうとワクワクしながら、実際観たらほんとに面白くて、毎週欠かさずに観ていました。


俺スカは、簡単に言うと、ゲイで女装家の先生が生徒達との絆を深めていく学園ドラマです。でも、このドラマで言いたかったことは、おおむね「ゲイとか女装家とか、そういうものに特殊な何かが秘められてるんじゃなくて、みんなそれぞれがやりたいことをすれば良い」ということでした。
ゲイ、女装家、という設定を付加したからといって、深くジェンダーやらなんやら、難しい方向に話を持っていかない姿勢がわたしは好きでした。「人間はみんな、したいことをして良いし、それはひとりひとり違う」。主人公ののぶおは、自分のやりたいことや言いたいことをズバズバと言っていく。その自然体な姿に、みんなが惹かれていく。いつしか、その素直な姿勢は、学校全体に影響を与えてゆく。


そんなのぶおの魅力は作品内でたくさん語られているので、今日はわたしが「この作品でしかこんなことは出来ない」と驚いたところの話をしようかと思います。


この作品には何人もの魅力的なキャラクターが登場しますが、中でもこの作品でしか出せないような子が、ひとりいます。作品の最初は登校拒否していた、安岡くん(これで漢字合ってるかな)です。
安岡くんは、最初は弟や妹、母親のためを思って行動する、心優しい男の子として出てきました。物語としては序盤の方に一度スポットがあたって学校に来ることになるのですが、その後、終盤にもう一度スポットが当たります。


それは、女の子になりたい、という願い。スカートをはいて歩いてみたかったという願い。
周りから気持ち悪いと思われるかもしれない、「普通」じゃないことは分かっている。それでも自分はやってみたいことを先生ののぶおに打ちあけ、学園祭の日にスカート姿で登壇し、みんなの前でその思いを打ち明けます。
「家族思いの男の子」として出てきた男の子のこの告白に、わたしはとても驚きました。確かに言われてみれば少し女の子っぽいところはあると思っていたのですが、のぶおのような「分かりやすいアイコン」を主人公として出した上で、安岡くんのように本当に日常に溶け込む、そういう願いのある子を出してきたことに。
同時に、大抵のキャラクターは大きな悩みをひとつ解決したら悩むパートは終わりだけど、安岡くんは第二の大きな悩みを出してきたことに。


そして。何より、その告白の後、本当に安岡くんは「女の子」として当たり前のように存在していたことに。
あまりにも自然だったから、最初全然気付かなかった。おや、スカートだ、とは最初分かったけど、度々女の子に混じってたから、「安岡くん」を度々見逃していた。あんまりにも仕草がかわいかったから。化粧もかわいくて似合っていたから。
いや、これはね、すごいですよ。何ならその導入だけで話を増やせるようなすごいことですよ、これ。クラスの子みーんな安岡くんを、ちゃんと「スカートをはきたくてはいてる子」として、「女の子になりたい安岡くん」として、当たり前のように日常でふれあってる。


真の理解とは、その深刻さについて話し合うことじゃない。それを当たり前のものとして、受け入れることだ。気を遣わないで、接することだ。
それをさらりとやってのけた俺スカは、本当にすごい。わたしは、この物語の裏の主役は、安岡くんだと思ってます。最終回ののぶおに手を振る安岡くん、本当にかわいかったよ。


今、男女平等とか、男尊女卑とか、そういうものについては世間はかなり敏感になっているように思う。そんな中で「女の子になりたい」とはっきりと宣言した安岡くんは、本当にまぶしくて、良いことだ。
自分がどういう存在であるかじゃなくて、自分がどうなりたいか、どう行動したいのか。なりたい自分になることほど、自分を好きになる方法はないよね。安岡くんも、わたしも、きっとそうだ。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
わたしは、素敵なお嫁さんになりたい。