次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

「ふつう」ってなんだ?

久しぶりの更新だ。もう前回の記事で何を書いていたか忘れてしまった。もし前回、次回に引っぱるようなことを書いていたら、申し訳ない。今日からまた新しい考え事とかを載せていこうと思う。

 

さて、唐突だが、わたしは「普通」という言葉がすごく苦手である。「平凡」も同じくらい苦手だ。この場合の苦手は、嫌いというよりも、扱い方が分からない、正体が分からないというのが根底にある苦手である。

昔の話をしよう。わたしは一次創作の小説を書こうとした時、そこに登場させるキャラクターを考えていた。今まで考えてきた数々のキャラクターにはない要素を入れようとして、「平凡」なキャラクターを作ろうと思った。当時ラノベで平凡キャラクターが主人公のものは流行っていたので、そのノリで書ければいけるだろうと思ったのだ。

結論から言うと、そのキャラクターはボツになり、永遠の闇に葬られることになった。

まったくイメージが浮かばなかったのだ。平凡なキャラクターを書こうとしても、具体的なキャラクターが何も降りてこなかった。「平凡」がなんなのか分からなかったからだ。

考えていたのは学生のキャラクターだったが、特段目立たずにいる人か?いや、それは「目立たない人」であって、平凡とは限らない。テストで中間くらいの点を取る人か?いや、それは「テストで中間くらいの点を取る人」であって、平凡とは限らない。

平凡とは何か?……当時十代半ばだったわたしは、それに答えを出すことが出来なかった。靄がかかった雲のような存在になってしまったのだ。

 

大人になってから、人は自分なりの基準があって、それに則して「ふつう」を決めていることもあると知った。

わたしが精神病になった際お世話になった上司さんの、唯一苦手だったところは、そこだった。自分の常識を、こちらに当てはめてくるのだ。「考えればわかるだろ、ふつう」……何度言われたか分からない。

つまりそれが分からない自分は、上司さんから見れば頭が悪いということになる。けれど、こちらから見ればそれはわたしの「ふつう」だ。上司さんからの「ふつう」を浴びるたび、わたしは「ふつう」とは何か首をひねった。

 

ひとつ考えたのは、「ふつう」とは不変ではないということだ。変わりゆくものであるということだ。

普通。規則。常識。こうだと決まっているものは一度決められたら変わらないように見えるが、時に「価値観をアップデートしよう」という言葉が用いられるように、それらは変わることもある。

そして忘れてはならないのが、変わりゆくと言っても、風に吹かれて変わるわけじゃないし、水に流されて変わるわけじゃない。誰かが何かをしたことで変わるのだ。

行動によって「ふつう」は変わる。考えの発信によって「ふつう」は変わる。自然による働きかけによっても変わるだろう。

「ふつう」は、実は、すごく移ろいやすい。確固たるひとつの絶対的な何かではない。だからわたしは平凡なキャラクターを考えられなかった。あまりにも曖昧すぎて、定義が変わりやすいからだ。

 

それに気付いてから、わたしは「ふつう」という言葉を使うのをやめた。「ふつう」は、定義は曖昧だけど強く聞こえる言葉だと思ったからだ。

「ふつうこう思う」ではなく、「わたしはこう思う」。「ふつうにやってるよ」ではなく、「日常的にやってるよ」。具体的に言うように心がけた。

これは「ふつう」が苦手だからという理由もあるが、それ以上に、相手に誤解を与えたくないからだ。人と人との話し合いに「ふつう」を持ち込むと、必ずどこかで歯車が噛み合わなくなる。そして言われた側は、「そっちがふつうなら、こっちはふつうじゃないの?」という不満を抱くことになる。

人は基本的に、「ふつう」であることに安心する生きものだ。そうでなければ、「おかしい」という言葉は悪い意味で持ち込まれないだろう。……「おかしい」と言われたがっている人は除いて。

コミュニケーションに亀裂が入ると分かっているものを人相手に使おうとは、わたしは思えなかったのだ。

 

わたしが「ふつう」を使わないようにした理由は、もう一つある。

自分自身の「ふつう」が、相手を知る際に分厚いフィルターになってしまうからだ。これは人と話すときだけではない。本を読むときも、ニュースを観るときも、何にでも当てはまる。

「ふつうは」を頭に置くだけで、視野は一気に狭くなってしまう。「ふつう」を通した世界は、「ふつう」か「ふつうではない」かの二択でしか判断できないからだ。

そして「ふつう」に思考が支配されて、自分は何を見たいのか、考えたいのか、冷静に物事を見れなくなってしまう。頭の中で理解して整理するために、それは避けたいと思う。なのでまずは、そこにあるものをそこにあるものとして受け止めてから処理するように……を心がけている。出来ているかは自信がないが、そんな理由もある。

 

そして、いろんな判断を己の「ふつう」にすべて委ねてしまうと、たとえば自分が間違いを犯したとき、間違いを認められなくなってしまう。わたしはそれが怖い。「自分の中ではふつうなのだから、問題はない」「自分の中ではふつうなのだから、これは正しい」という考え方ほど、恐ろしいものはない。立ち止まって考え直すことが出来なくなってしまうからだ。

 

……大人になっていくほど、素直になるのが難しくなる。素直に「ごめんなさい」を言うような機会が、少なくなっているように思う。

それは、歳のせいなのだろうか。責任のある立場だから、なのだろうか。

どんどん「自分はふつうだ」と思う力が、強くなっているからじゃないか。「自分はふつうだ」という気持ちが、間違いを認めることにブレーキをかけているんじゃないか。

「ふつう」にとりつかれた者の末路は、少しでも自分と異なる意見や感想を見かけたらそれを悪だと思い込む、自称正義の者だろうか。思い通りにならない相手を最低だと罵る、自称被害者だろうか。

……ならば自分は、やはり「ふつう」を使わないでおこう。そう改めて感じる今日なのであった。

 

ここまで読んでくださりありがとうございます。

「ありがとう」と「ごめんなさい」を言える立派な大人になるのが、当面の目標です。