次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

ゆるり、日常に差し迫る料理の神秘

「今日のこれ何?」「牛のしぐれ煮」わたしがこんな会話をする人間になるとは、1年前のわたしは夢にも思わなかっただろう。それも、「牛のしぐれ煮」と言う側に。

 

高校の頃、おにぎりパーティーをしようという提案があった。学校から一番近い好母ひおりの家で、気の合う友人と、色々なおにぎりを作って食べようという試みだ。わたしはすぐに頷いた。自分の家でパーティーをするなんて初めてだった。

友人を家に招き、鮭や筋子、果てはチョコレートなんて博打まで並んだ様々なラインナップを机の上に置き、さあ作ろうと炊飯器でご飯を炊くところから始めた。皆で炊飯器を囲むなんて家庭科の授業ぶりだろうか。パーティーに浮き足立った雰囲気で、小突きあい、弾かれるような笑い声と共に冗談を言い合う中で。

「お米ってここまで入れれば良いの?」

わたしは炊飯器に刻まれた白いラインを指差した。

途端、わいわいとした空気が一斉に凍り付いた。「え?マジ?」と冷め切った確認の眼差しが向けられる。問いの答えは返ってこなかったが、わたしはその空気でひしひしと「違う」を感じた。わいわいがざわ……ざわ……になった瞬間だった。

お米は計量カップで測り、どれくらいの量を何杯入れたかで決まる。高校生のわたしは、それを見事に知らなかったのである。

これは今でもこの頃の友人に語り継がれる伝説だ。「好母、お米の炊き方知らなかったしな〜」という台詞は、料理の話題になる度にあちこちから飛び出ていた。

 

冗談ではなく、本気で、大学から出るまでキッチンに立った時間は1時間もなかっただろう。わたしはそんな人間だった。

「包丁を使ってるところなんて見ると危なっかしいから」と、母親に立つことを許されなかったのだ。料理をするようになったのは、本当にここ半年くらいの話だ。

 

それを踏まえて言うが、料理は楽しい。

何が楽しいって、つくることそのものが楽しい。

考えてもみてほしい。肉や魚、野菜など、わたし達がそのままでは食べられないまたは食べにくいものを、加熱したり、切ったりして、食べやすく形を整えるのだ。それも、肉にしたって薄切りだったりひき肉だったり、形は千差万別と言える。それも、オリーブオイルで炒めてからコンソメを振り掛けて煮詰めるか、ごま油で炒めてから醤油とみりん、酒で煮詰めるかで、全然味が変わってくる。同じひき肉でも。

肉の赤色が茶色に変わる瞬間の、化学反応とも言える面白さ。野菜を炒めたときのこうばしくも独特なふわりとした香り。苦手な青臭い玉ねぎが、炒めれば柔らかく甘くなる不思議。かつおだしを煮出したの、あの黄金の美しさ。

 

料理とは神秘だ。色々なものの神秘を目の当たりに出来る、絶好の機会と言えよう。

この変わっていく過程が楽しい。おかげで自分で料理を作る日は、その過程に満足してしまっていつもより食欲が減ってしまうくらいになっていた。

うまく出来ない料理が出来た時も嬉しい。ハンバーグはひっくり返すのに5敗はしたが、うまく焼けたときはやっぱり嬉しいものだ。

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小さいときから知らなくても、今知ると面白い。

料理を義務ではなく娯楽として楽しんでいる、はたちもそこそこに過ぎた今日この頃なのだった。20までお味噌汁を作ったことがなくても、どうにかなったのだなあ。

 

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ここまで読んでいただきありがとうございます。

ルーを使わないでカレーやハヤシライスを作るのも、なかなかオツですね。