次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

自分で考える、ということ

お久しぶりです。好母ひおりです。
リアルが慌ただしくいそがしく、一息つくまでブログの更新はやめておこうと思ったのですが、ひとつだけ、どうしても気になる事がありました。自分的にはかなり驚いたので、このひとつだけ、今のうちに書いておきます。

某日。彼氏さんと買い物に行った帰り、ポストの中に黒いビニールの包みがちょこんと入っていた。かたちからして、何かのケースでも買ったのかと思ったけれど、わたしはそんな通販をした覚えはない。一瞬二人して首を傾げてから、ああ、と彼が納得したように言った。


「そういえば本を頼んでおいたんだった」


彼氏さんの棚には少しの本が並んでいる。それも、すべてビジネス書のジャンルだった。以前、人を言葉で操るにはという名目の本を見せて貰ったことがある。話を聞いてみると、いつも見てるブログや動画のユーザーが本を出したときに買っているらしい。
なるほど。小説やゲームの設定本が並ぶわたしの本棚とは、まるで傾向が違っていた。


そうして家に戻った後、袋の封を開けると、それは200ページくらいありそうな分厚い本だった。


「こういうの」


彼氏さんが表紙を見せてきた瞬間、わたしに稲妻が駆け巡った。


「えっ!?」


そこには本の題名が書いてあった。
「自分の頭で考える本」。タイトルはうろ覚えであるが、本の紹介をしたい訳ではないので、これで行きます。
その時のわたしはもう見るからに狼狽えていた。見るからに動揺していた。見るからに混乱していた。


「じじじ、自分の頭で考える!?自分の頭で考える事を他人の本から学ぶの!?」
「うん、そうだけど……」
「自分の頭で考えるって自分の頭で考えるから自分の頭で考えることになるんじゃないの!?」


書いているとすごく意味不明な言い分だ。ここに関してはあまりにショックが大きすぎて、思ったことをすぐに口走ってしまった。ここは反省します。
つまりはこういう事を言いたかった。
自分の頭で考える行為……つまり思考と言えるだろうか。思考は、自分自身で考えて深めていく事によって、その精度を上げていく。もし人が思考の精度を上げたいと思ったとしたら、それしか方法はないと思っていたのだ。
何故なら、たとえ本で学んだとしても、それはいわゆる暗記的な受験勉強に過ぎない。実生活で使うには、かえって思考の幅を狭めてしまう危険性がある。「こういう時はこの考え方をする」と一度思い込んでしまったら、方向転換がきかない。知識ではなく思考という面において、それはかなり危険なことだと思う。


混乱しながら本の中身に軽く目を通してみたが、使っている言葉と考え方のジャンルがわたしとかなり違っていたので、すぐに机に置いてしまった。知識として吸収するなら良いかもしれないけど、これを本当に思考の参考にしようとしたら柔軟性がなくなってしまいそうで怖いなあ、と思った。
おそらくはわたしのこの考え自体、本の求めてる客層とは違うのだろう。初めは戸惑ったものの、それはそれで置いておくことにした。彼氏さんも今の自分の思考を変えたくて、本を買ってまで試行錯誤しているのだろうし。
……自分で言っておいて何だが、「思考を変える」って何だろう。また考えようのあるテーマだ。

 


その夜、お風呂の準備をしながら、こんな話をした。


「わたしは多分、本として読むなら哲学的なものが好きなんだと思う。それこそ、考えるコツよりも、何故人は考えるのかってした方が興味あるなー」
「ふーん……。それって何の役に立つの?」


えっ。


人間についての理解が深まるし、それが自分が考える時の参考になるとか……?」
「あー、そういう事か」


咄嗟に返してしまったし、相手も納得してくれたので、この話はここで終わってしまった。
しかし後になって考えれば、あれはものすごい建前ちっくな答えだった。と言うのも、考えてるとき、または考え終わった後に「これは人間への理解が深まるぞ〜」とか、「自分が考えるときの参考になるぞ〜」とか、一度たりとも思っていないのだ。
何かの役に立たせよう、立とうと思って何かを考えてはいないのだ。
そこにものがあるから考える。そこに疑問があるから考える。もっと分かりたくて、分かりやすく整理したくて、さらに深くまで考える。
何というか……スポーツみたいな感覚だ。ランナーが1秒でもタイムを縮めたいのは、何かの役に立つ為ではない。己の限界への挑戦だ。もっといける、さらにいける、と奮い立たせる。その先の境地へと、辿り着くために。


わたしにとっての「考える」とは、それなのだ。何かに対しての手段ではなく、もっと根本にあるものだ。だからこそ、あの本とは相容れなかったのだろう。
こればかりは考え方の違いなので、どちらが善悪とは言えない。ただ、これは世の中のどんなものもそうだと思っているのだけれど、善悪で分けられないところに、面白いものは息を潜めて眠っている。声を上げないのでとても分かりにくいけれど、見つかると面白い。
また時間があったら、もっと具体的な違いを考えたいなあ。

 


最後に、わたしが「考える」を考えるきっかけになった、一番大きな話を書いて終わります。


数年前、病んだ精神を立て直していく過程で、わたしは会社のある上司さんにとてもお世話になりました。少しずつ心身が回復していった途中、会社に数人後輩が入ってきました。そんな時の話です。


「この定理の証明をしてみろ」


上司さんは定理の名前をホワイトボードに書き出した。高校で文系を選択していたわたしには、とても聞いたことのない名前だった。後輩達と目を合わせる。みんな知らなそうだった。ちなみにカタカナに弱いので、その定理の名前は今は忘れてしまった。
課題が出た後、みんな一斉に、インターネットのグーグル検索で調べはじめた。その証明の答え自体は、すぐに見付けることが出来た。各々これだろうというものを報告しようとする。


「証明は、答えを書くだけじゃダメだ。なんでその答えになるのか説明してもらうぞ」


これが本当に難問だった。この数式は、こういう解き方をして、こうなるので……と、答えの一行一行を説明していかなければならない。
答えを写すだけではダメ。説明が不足していてもダメ。そして、穴があると「なんでそうなるの?」と質問も入る。「それだとここと矛盾するよ」と何度もやり直しを食らう。
多分、人生で一番頭を使った。話している最中、数秒前に何を言っていたか忘れる。情報の質量があまりにも多すぎるのだ。整理しながら話をするって大変だと初めて知ったかもしれない。
これでなんと、二日経った。誰かが説明出来るまで終わらなかった。
何故そうなるのか。何故それが成り立つのか。深くまで考えていく。一行一行、答えの辻褄が合うように。終わりのないパズルを組み立てていく感覚だった。
そうして、わたしは後輩の助けもあって、何とか説明に成功した。
充足感。達成感。計り知れなかった。しばらくは、放心していた。


その後、こうも思った。「考えるって、こういうことなんだ」と。
物事を細かく分解し、どうしてそうなるのか、どうしてそれが成り立っているのか、疑って解析していく。物事をただ受け止めて何かを言うだけじゃ、考えたことにはならない。
本当にそれは正しいのか。本当にそれは、今自分が思っている印象が全てなのか。全てだとしたら、それは何故なのか。
「考える」ことは、思っていた以上に、身体の底に染み付くものだった。


すべてのことに、自分なりの説明を持てること。考えることの最高の境地としては、ここなんだろう。でもそれは難しいから、自分の手で何を考えるのか選んでいくのだろう。
それを、自分の頭で考え、自分で思ったからこそ、実感として深く感じることができる。そう思います。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
人生で何を経験したか、たくさん語れるような人間になりたいですね。