次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

「優しい人」というのは、レアだ

「好きなタイプは、優しい人です」という話を、いろんなところで数年前からしていた。そしたら、こんなことを言われたことがある。

「それだけ?そのわりに恋人いないよね」
言われた当時は、確かに。と思った。お相手のお金は気にしないし、顔も気にしないし、学歴も気にしない。おしゃれかなんてどうでも良いし、サプライズとかもいらないし、スタイルのことなんて考えたこともない。気にすることはただひとつ、「優しいかどうか」だった。もっと言うなら、性別だって気にしていなかった。けれどわたしははたちを過ぎるまで、恋人という存在ができたことはなかった。
単純に、出会いがなかったのかなーとか、そんなことを思った覚えがある。共学なんでしょ、とか言われた記憶もある。


さて、それから数年経って、「好きなタイプは、優しい人」はまったく変わってない。今でも胸を張って、好きなタイプは優しい人ですと高らかに宣言できる。好きな人間のタイプというものは、そう簡単に変わらない。
そうして、最近はこんなことを考えたりする。「優しい人って、レアだよなあ」ということだ。


「優しい人」と言うだけだと、条件がひとつしかないように見える。でも、場合によっては、お金よりも顔よりも学歴よりも難しいかもしれない条件が、山のようにもりもりに重なっているように思えるのだ。
たとえば、約束を守る。たとえば、謙虚である。たとえば、相手の立場を考えられる。たとえば、いろいろなことに理解がある。
わたしは昔から、「優しい」は、「賢い」がないとなり立たないものだと考えている。わたしという自分だけに優しいだけなら、それはただの、自分にとって都合の良いひとだ。
何かが起こったとき、優しい人は、自分の感情をセーブしながら相手や周りのことを考えられる。その難しさといったら、筆舌に尽くせない。自分の機嫌が悪くても、周りには関係ないことだと割り切ることができる。
これは、周りをよく見て、知って、理解していないとできないことだ。思いやりって、隣の人を見ていないと持てないものだ。下を向いたままでは、空いている手も伸ばせない。
優しいって、すごい。目の前のものを得ているだけでは、成れないと思う。ルールを守るだけじゃ、優しくはなれない。そのルールが何のためにあるのか考えられる人が、ほんとうに優しくなれる。


今何をするべきなのか考えられる冷静さと、相手の立場にたってものを考えられる賢さと、人への興味と。そういうものがあって成り立つものなのかなあ、優しさって。
何に困っているか、何が原因で泣いているのか見極められなければ、人に優しくなんてできないものね。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
なんて贅沢で、なんて難しい条件なんだろう、「優しい人が良い」って。そりゃ、なかなか見つからないわけだ。

目的と共感

「男性は目的を求め、女性は共感を求める」というのは、昔からよく言われている。どういう理論でとか、どういう仕組みでとかはあまり詳しくないですけど、確かに日々を過ごしているとそう感じることは多い。

それで定義すると、わたしは目的色の強い女性で、彼氏さんは共感色が強い男性だなあ、とよく思う。彼氏さんは、いわゆる草食系男子というやつに、結構近い性質を持っている。いつもおっとりしていて、角が丸い。
たとえば、わたしは普段「やらかす」ことが多いので、うっかり転んだりうっかり火傷したりうっかり物を落としたりする。彼氏さんはそんなとき決まって、「大丈夫?」と心配する。そこまではよくある話かもしれないけど、そのあとに、「痛い?」「熱い?」と、今わたしがどんな状態か確認してくる。
これはわたしが彼とお付き合いをして、トップスリーに入るくらい驚いたことだ。仮に「ちょっと痛い」と言ったら「痛い?痛いよね」と、「つらかった」と言ったら「つらいよね」と共感してくる(熱いときは大抵大丈夫と返してしまうので割愛)。
わたしは、そういうところは、あまりない。相手が「つらかった」と言ったら相槌は打つかもしれないけど、どうしたら目の前の人がつらくなくなるのかをつい考えてしまう。解決方法に向かってまっすぐ歩き出してしまう。


ここは、彼を見習うところだなあと強く感じるところだ。実際、わたしはそうされて助かった時があった。


とある日、彼氏さんと車で出掛けたとき、パンクをしてしまったときがある。意図しないタイミングで一瞬にして空気が抜けてしまい、急いで近くの駐車場に車をとめたものの、あと少し判断が遅れていれば後ろから衝突されかねなかった。
いろいろと悪いことが重なり、レッカー車でパンクしてしまった車を取りに来るのが遅れ、冷たい雨が降りしきる中1時間くらい車の中で待っていた。
正直な話、その時とても怖かった。真っ暗な夜に、自分たちだけが取り残されたようだった。彼氏さんはそこまで慌てずに来るのを待っていたけれど、わたしの胸の中には大粒の不安がどんどん降り積もっていた。
「大丈夫?」
見かねた彼氏さんが声をかけてきた。
困っている場合じゃないから、ほんとうは大丈夫と返したかったけれど、体の中はまったく大丈夫じゃなかった。思わずぽつりとこぼしてしまった。
「まだちょっと、さっきのでドキドキしてて……」
「怖かった?怖かったよね、何か暖かいお茶飲む?」
頷いたら、彼氏さんはすぐに車を出て、自販機に暖かいお茶を買いに行った。
これは、「向こうも怖かったんだなあ、同じで安心した」という共感とは、少し違う。向こうが、音もなくわたしの気持ちに寄り添ってくれるような、そんな共感だったように思う。
怖かったということを聴いてくれた上で、自分のために動いてくれたのが、とても嬉しかった。共感してくれた上で、目的のために動いてくれたのだ。持ってきてくれたお茶は、体も心もゆっくりと暖めてくれるような、ほっとする味だった。
そしてこの出来事で見習いたいことはもう一つある。それは、また今度話そうと思う。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
たまには、「両方あるってすてきだよね」という話があっても良いよね。

 

 

相手と自分の声を聴く。

低気圧でうだりつつケータイを見てたら面白くて参考にしたい記事を見つけたので、ここに紹介したい。

https://www.akiradrive.com/hanashiai-kikiaukoto/


ここのサイトさんは、「異性(パートナー)の運勢を上げる女性」=「あげまん」になる理論が、わかりやすくかつたくさん書かれています。あげまんって揚げ饅頭の略かと思ったら違うのね。
これだけ聞くと「異性なんて自分には関係ないしな〜」と思う方もいると思いますが、異性同性に関わらず互いのことを知りながら物事を前向きに解決していく方法や考え方が書かれているので、思わず時間を忘れて読んでいました。


中でも「おおっ」と思ったのが、上記の、話し合うとは、言いたいことを言うのではなく、聴きたいことを聴き合うということ。
いや、まことに、本当にその通りだと思う。
「言いたいことを言う」のは、究極的に言ってしまえば、ただ言えればそれで良い。感情のはけ口として相手にぶつけてすっきりしてしまえば、それで良い。そういう意味では、いわゆる「愚痴をいうこと」と、仕組みとしてはそんなに変わらないんですよね。
でも、聴き合うというのは、そうじゃない。相手の言葉を聞いて初めて、自分と相手がどうすれば良いのかを一緒に考えられる。
お互いに納得することと、お互いにすっきりすることは、似てるようでまったく違います。そこから前に進めるか、同じ事を繰り返すか。成長できるかできないか。「言いたいことを言う」と「聴きたいことを聴き合う」の違いは、そこにあるではないかと、しみじみ感じました。成長とは、相手がいないとできないですからね。


こういうのを読んでると、昔のわたしは、こんなことを思っていました。
「じゃあ、これを実現するために、自分は『我慢』をしないといけないのか?」
相手が喜ぶために、いろんなことを我慢しなくてはいけないのか?相手を尊重するために、自分を殺さなくてはいけないのか?
数年前のわたしなら、間違いなくそう考えていた。そうして、そんなことはしたくないと、読み始めてすぐに目を背けていただろう。
結論から言えば、それはちがう。意識はしないといけないけれど、我慢をする必要はまったくない。
そもそもこれは、「お互いに話し合いたい」と思う人に向けた記事だ。今ここにいるわたしがそう思っていなければ、いくらでも無視できる。ひとつの記事、ひとつの情報なのだから。
そう思うならしなくたって良い。ストレスになるなら読まなくても良い。その選択肢を、昔のわたしはたびたび忘れている。「よくなるため」なら、全部やらなくてはいけないと思っている。
これは改善方法であって、義務ではないのだから、わたしは、わたしのしたいことを、わたしのできる範囲で、やれば良いのだ。それをしたいけどできないと言うのなら、できる方法をまた探しに行けば良い。
こう考えると、いつかのわたしはわたしをどこまでも追い詰めていたんですね。自分を認めるとは、もっと自分をよくすることではなく、できない自分に「できないんだね」と声をかけることなんだろうなあ。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
「できない」ことは「悪」じゃなくて、「途中」なだけなのかもね。

電車の中の小旅行

2日に1度の更新を目指してみることにしました。ブログだけにがっつかないための対策です。ネタはたくさんあるので、ゆっくりやっていきます。

会社へは電車で通勤していますが、わたしは基本的に電車でスマホは触りません。外にいるとき、特に誰かと会っているときは、あまり触らないようになりました。いつからだっけ。いつからかは分からない。初めからかもしれない。
たまに家族からの「いつ帰るの?」というLINEに反応出来ず、返信が遅くなって怒られることも、ままあります。それくらい、外にいるとき、わたしとインターネットは急に疎遠になる。会社では休憩時間にちょこちょこ見るんだけど、どうしてか外だと興味がなくなる。出すのが億劫なのかも。


じゃあ何をしているのかと言うと、周りを見てます。だいたいおじさんか若いお姉さんが、わたしの周りを囲んだり隣に座ったり前に並んだりする。おにいさんはそこまでいない。
電車に座ることができたら、おおよそ寝ています。通勤時はマスクをしているので、ありがたいことに寝顔の大半は隠れます。耳につけてるワイヤレスイヤホンから流れる曲は気分によって変わるものの、朝は元気を出したいので、応援したいアイドルにすることが多い。
わたしが乗る電車はそこまで満員電車にならないので、息苦しい思いはそこまでしていません。これは、仕事をするにあたって、大切でありがたいことのひとつだと思っています。行き帰りで疲れたら本番で力が出せないからね。


しかし、電車を待つ間も乗った後も、しかくいスマホに夢中になっている人はほんとうに多いですね。新聞を読んでる人も本を読んでる人も何をしているか分かるけど、スマホを触っている人というのは、傍目から見たら本当によく分からない。
動画を見てるかもしれないし、友達とLINEをしてるかもしれないし、インスタをチェックしてるかもしれないし、アマゾンで買い物をしてるかもしれない。
みんな電車の中にいるのに。
みんな同じ箱の中に揺られながら、とても多くの選択肢から、自分のやりたいことを選べるようになりました。技術の進歩を目の当たりにする瞬間。むしろわたしのようにぐうぐう寝る方が、珍しくなってしまったような気がする。


昔、PCでオンラインRPGゲームをやったことがある。世界中からひとつの架空世界に自分のアバターを降り立たせ、色んな人と話したり、敵を倒したり、装備の買い物をしたりした。離れた人と同じ世界を共有しながら気持ちを交わせることに、子どもながらに驚いた。
今、それが三次元で出来るようになったのだなあ。電車にいながら、友達と話したり、ゲームをしたり、買い物をしたり、映画を観れたりする。わたしたちは、電車にいながら、色々な場所へ旅行できるのですね。
そう思うと、改めてスマホはすごい。VRがなくても、「その場体験」が出来てしまうんですから。手放せなくなるのも、無理はない。
まあ、わたしはそんなことを考えながらも、電車ではやっぱりぐうぐう寝たり、ぼーっとしたりするんですけどね。


ここまで読んでいただいてありがとうございます。
「ぼーっとする」が、「もったいない」になり始めたのは、いつからなんだろう。

 

変わる人と、変わってほしくない人

第1回はこちら。
https://musicbell17.hatenablog.com/entry/2019/05/09/223038


前回の記事はこちら。
https://musicbell17.hatenablog.com/entry/2019/05/10/220934


「さっきの話、もし、僕が話すのが苦手ってことを100人の人に話したとしたら、80人は、ふーん、そうなんだで終わると思ってて」
「20人は、こうしたらどう?ってアドバイスを入れてくる」
「で、ひおりちゃんはそれともちょっと違って……」


彼氏さんはいつもより饒舌になって、自分が思っていることを言葉にして語ろうとしてくれていました。優しくにこにこ笑っている表情とは少しちがって、とても真剣なまなざしでした。それでもどこか迷いのようなものがあったような気がします。


「その20人のひとは……なんていうかな。こうしたら良いよって同じ事は言ってくれるんだけど、なんか、僕が本当にそうなるとは思ってない、っていうか」
「こう、諦めてるような感じが……。友達にも話したことあるけど、そういうやつだよな〜で終わるような。あ、でも、それがその友達とのコミュニケーションだから、良いんだけど。でも、ひおりちゃんは違うから……」
「なんていうか……ずうずうしくないっていうか……愛があるよね」


さらっと「愛」が出てくる彼氏さんの口に、最早尊敬の意すら感じていました。なかなか出てくる物ではないと思うよ。
急に飛び出してきた甘いテイストにずっこけながら、わたしはかなりたどたどしく尋ねました。


「その……ずうずうしくないって、謙虚とは違うんですか?」
「ううん、謙虚とは違うね。うーん……やっぱり愛があるかな……」


ド正面の目の前で愛愛言われる身にもなってください!!!!!!!


「どう言って良いのか、僕にも分かんないんだけど……」
「とりあえずめちゃくちゃ恥ずかしいので、愛があるの話はもう良いです……」


忘れそうになりますが、ハンバーグ店の中なので、彼氏さんと背中合わせに中学生くらいの男の子が座っている状態でした。当時の心境をシンプルに言うなら、顔から火が出て店中のハンバーグを黒焦げにするところでした。
これで話は終わりになりそうだったのですが、先程の話の中で、1点、気になることが。


「でも、そのお友達、さっきの話を聞いてると、諦めてるのもありますけど彼氏さんにあんまり変わってほしくないみたいですね」
「そうかな?そうは言ってなかったけど」
「多分、お友達の中でも無意識だとは思うんですけど。彼氏さんが話すのが苦手で、それをそういう奴って言うことが彼氏さんとお友達のコミュニケーションで。で、彼氏さんが変わると思ってないのにそう言ってくるってことは、内心は本当に彼氏さんに変わられると困るんですよ。だってそれが二人のコミュニケーションなら、その手段がなくなってしまうことになるんですからね」


この話は、中高生のクラスとかで例えると分かりやすいと思います。
明るくてひょうきん者の生徒が急に大人しくなったり、「俺勉強やってなくてさ〜」と周りに言い触らしていた生徒が急に勉強をするようになったら、周りは驚いたり、茶化したりして、少なくとも今までと同じような関わり方は出来なくなってしまいますよね。
「そういう人」だと思っていた人が変わってしまったとき、人はとても動揺します。そんな人間になってしまったのかと幻滅することもあるし、もう一緒にいる意味も無いと去ってしまうこともある。本来、「変わる」ということは、ノーリスクではありません。
だからこそ、わたしは最初に彼氏さん自身はどうなのか確認したんですけど、そういうことならお友達とわたしが違うことにも納得がいきました。


「ちなみにわたしとしては、彼氏さんが話したいと思うなら話したいなと思いますよ。それが一番気持ち良いですから」
「そうかな……。でも、やっぱり、難しいね。何話してるのか、途中で分かんなくなっちゃう……」
「それ、彼氏さんが途中で、すごい頭回してるからだと思うんですよね。さっきの話聞いてて、なんとなく彼氏さんのくせが分かってきました」
「ほんと?」
「なんとなくですけど……あ、紅茶結構冷めましたね」


そうこうしてるうちに、湯気が上がっていた紅茶はすっかり冷めてしまいました。カップ2杯分の紅茶をいただき、ようやく夕食を終えて、わたしは車の助手席に乗り込みました。
あとは帰るだけとなってからも、まだ話は少しだけ続きます。


ここまでお読みいただきありがとうございます。
自分が変わったとしても変わらずに笑いあえるような人こそ、大切にしたいですよね。

「言い訳」は必要か。

(試験的に敬語をなくして投稿してみます)


「言い訳をするな」子どもの時、よくこれを言われながら育ったと思う。
小学2年生の時の学校の先生にも言われたし、母親にもよく言われた。それもだいたい、いや全部が、向こうが怒っていることがよく分かる状況で。優しく「言い訳をしたらダメ」なんて言われなかったなあ。


これを言われた時、きまってわたしの胸には同じ言葉が浮かんだ。
「どうして言い訳したらダメなんだろう」
「今自分が言おうとしたことって、『言い訳』なのかな」
「自分は、『理由』を言おうと思ってたのにな」


もうびっくりするくらい、同じ事しか浮かばなかった。これ以外のことが浮かんだことはない。なんでなんだろうという疑問だけが残る。
でも、それを素直に言うことはかなわなかった。「言い訳をするな」と怒る人には、それすらも「言い訳」になるからだ。
「言い訳をするな」に対する答えはいつも決まっている。「はい」という返事だけだ。
その返事だけが、「言い訳をするな」と言う人の表情を笑顔に変える事が出来た。それ以外は全部「言い訳」なのだから。


わたしも大人になった。仕事をするようになって、そこそこ責任も負うようになった。
今なら、「言い訳をするな」と言っている人の気持ちが分かるようになった。考えてみたら、結構簡単な話だった。
つまるところ、その人にとって返事以外「言い訳」に聞こえるということは、「自分の話の邪魔をされたくない」これだけなのだ。
自分が見ている道に二股を作りたくないのだ。相手の言葉が、自分の言いたいことを邪魔されているように感じる。自分の考えていることを変えられたくない。
だから、「するな」と怒る。これはおまえのせいなのだから聞き入れろと、とにかく言いたくてしょうがない。マシンガンをぶっ放したくて仕方ないのにやめろなんて止められたら、うるせえ!と跳ね返してしまうんだろう。
思えば「言い訳をするな」と言ってきた先生も母親も、自分が強い人間だったな。


それが良い悪いは、この際置いておく。
問題は、「言い訳」は、必要かどうかだ。わたしたちが日々を過ごすときに、いるかいらないか。それはちょっと考えなきゃならない。


例えば会社で、社員が会議に遅刻した。
「何故遅刻をしたのかね」
上司がこう問うたとする。社員は遅刻した訳を述べる。
ここで、この「訳」が「言い訳」になるのか、「理由」になるのか。その会社という組織の在り方が、とてもよく分かる瞬間だと、わたしは思っている。


何故か。
その会社が「よくなる」のに、「訳」はとてつもなく大事なものだからだ。
「訳」は、個人の話だと個人のさじ加減にしかならないけれど、誰かとよりよい何かを育んでいくためには、「訳」は本当に必要不可欠なものだ。
これは会社に限った話じゃなくて、家族とかにも同じ事が言える。


何故か。
さっきの例でいくと、その訳を聞き入れるか聞き入れないかで、こうも変わる。
「実は、別件でトラブルの処理をしていたら、間に合わなくて……」
「そういう言い訳はよろしい。座りたまえ」
今どきこんな言葉遣いをする人はいないかもしれないけど、これだと確かに、時間の省略にはなるだろう。その場はエコだ。


「実は、別件でトラブルの処理をしていたら、間に合わなくて……」
「それは、誰かに代わってもらえなかったのかね?」
「自分ひとりしかいなかったので、手が離せなかったのです」
「君のスケジュールには会議が入っているのに、その場にはひとりしかいなかったのかい?」
上司は驚いて、社員のスケジュールと現場の状況を改めて確認した。違う問題が浮き彫りになった瞬間だ。


「訳」は、あなたの目には見えない問題を、はっきりと示してくれることもある。
それを面倒と思うか、良いことだと思うかは、会社などの組織の自由だ。けれども、これだけは言えるだろう。それをほったらかしにしておけば、ほったらかしにした組織は、必ずおのれの首をしめるのだ。
「言い訳」とは、「言い訳」をした人が持っているボールではない。「言い訳」をされた側の人が何を思い、どう対処していくかのボールだ。
だからこそ、「言い訳をするな」と言われたわたしは、あんなにも不満だったのだろう。自分ひとりのボールだとばかり言われていたのだから。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
もし自分に子どもが授かったとしたら、ぜひとも「たくさん言い訳をしなさい」と言いたいね。

おくる言葉を、選ぶこと

前回の記事はこちら。
https://musicbell17.hatenablog.com/entry/2019/05/09/223038


暖かい紅茶の湯気が、食べ終わったハンバーグのカロリーを沈めるようにゆっくりと上っていました。おいしかったですね、と当たり障りのない会話を交わした後に、彼氏さんがぽつりと。


「ひおりちゃんって、他の人とは違うよね」
「? いつも変なことしてる自覚はありますけど……」


※この直前紅茶のポットで火傷しそうになってました


「えっと……そうじゃなくて、なんて言えば良いんだろ」


俯きながら、ちらちらと様子をうかがうように見つめる彼氏さん。「シャイ」をそのまま形にしたような仕草をするときは大抵言いたいことがある時なので、わたしも心当たりを探ってみることにしました。


「何かありましたっけ、さっきの話の続きですか?」
「うん……その……。……ひおりちゃんが見てる世界って綺麗なんだろうなあって思って」
「へ」


どんな口説き文句やねんとわたしの顔から火が出そうになってる間も、彼氏さんはうーんとマイペースに言葉を探していました。


「普通人間って年を取ると、その……見方が変わるっていうか、曲がる?っていうか……歪んだ見方になっちゃうところがあると思うんだよね」
「それは、そう……なんですかね」


何気ない一言が、受け手によっては悪意に満ちたものになったりすることは、往々にしてよくあります。純粋な親切心も、誰かの見方によっては「おせっかい」であるように。


「でもひおりちゃんは、そのままを見てるなーって。さっきの僕の話も、一緒に考えてくれて……。あ、でも、そのままを見すぎっていうのもあるけど。良いところなんだけど、それでひおりちゃんが損をしたら駄目だからね」
「うーん、そこのところ、自覚はあんまりないんですけど……」


自分の視点というものは自分にしか分からないようで、実は他人の目を通して初めて分かるものなのかもしれません。しっくり来ていないわたしに、彼氏さんは例えば、話を続けました。


「Nさん(※共通の上司)とかは、こう……悪く言う訳じゃないんだけど…………あの人は、ずる賢いって言ったら悪いかな……。こう……戦略的っていうか……」
「あ、それは二人で話したときに分かりますよね。わたしも、あの人は世の中のよけ方をよく知ってる人っていう印象です。中間管理職ですしね」
「うん。でもその、戦略的なところが、結構見方を歪めちゃう……うーん、なんて言ったら良いんだろ」


おどおどしている彼氏さんは、今ここにいないはずの上司にも気を遣っているようでした。


「大丈夫ですよ、彼氏さんが思ってることを言ってください」
「うん、でも、ちょっと違う気がして……何が言いたいのか分かんなくなってきた……」
「難しいですね」


彼氏さんを見ていると、改めて、言葉を選ぶということの難しさを感じます。
誰にも使えるような言葉を使って話すのは便利だけど、本当に胸に秘めた思いというものは、これほどまで悩み抜いて、初めて意味のあるものになるのかもしれません。
言い表せない感触が自分の中にあるとしても、今感じていることに一番近い言葉を選ぶ。それこそが「自分を表す」ということの近道になるのでしょうか。
同時に、その選択に妥協をしない彼氏さんの様子は、言葉へのこだわりがある好母ひおりとしては、かなり好感を持てる一面でした。


「さっきの話、もし、僕が話すのが苦手ってことを100人の人に話したとしたら、80人は、ふーん、そうなんだで終わると思ってて」
「はい」
「20人は、こうしたらどう?ってアドバイスを入れてくる」
「なるほど」
「で、ひおりちゃんはそれともちょっと違って……」
「あれ、違うんですか?」


昨日の記事を読んでいただければ分かりますが、わたしが彼氏さんにしたことは、今話に出てたようなアドバイスでした。
けれど、彼氏さんはわたしの疑問に強くうなずきました。


「うん、違うよ」


その違いが気になるところですが、これもまた深く長いので、次回に続きます。


ここまでお読みいただきありがとうございました。
言葉を選ぶのに時間を使えることは、人間ならではのぜいたくですよね。