次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

「言い訳」は必要か。

(試験的に敬語をなくして投稿してみます)


「言い訳をするな」子どもの時、よくこれを言われながら育ったと思う。
小学2年生の時の学校の先生にも言われたし、母親にもよく言われた。それもだいたい、いや全部が、向こうが怒っていることがよく分かる状況で。優しく「言い訳をしたらダメ」なんて言われなかったなあ。


これを言われた時、きまってわたしの胸には同じ言葉が浮かんだ。
「どうして言い訳したらダメなんだろう」
「今自分が言おうとしたことって、『言い訳』なのかな」
「自分は、『理由』を言おうと思ってたのにな」


もうびっくりするくらい、同じ事しか浮かばなかった。これ以外のことが浮かんだことはない。なんでなんだろうという疑問だけが残る。
でも、それを素直に言うことはかなわなかった。「言い訳をするな」と怒る人には、それすらも「言い訳」になるからだ。
「言い訳をするな」に対する答えはいつも決まっている。「はい」という返事だけだ。
その返事だけが、「言い訳をするな」と言う人の表情を笑顔に変える事が出来た。それ以外は全部「言い訳」なのだから。


わたしも大人になった。仕事をするようになって、そこそこ責任も負うようになった。
今なら、「言い訳をするな」と言っている人の気持ちが分かるようになった。考えてみたら、結構簡単な話だった。
つまるところ、その人にとって返事以外「言い訳」に聞こえるということは、「自分の話の邪魔をされたくない」これだけなのだ。
自分が見ている道に二股を作りたくないのだ。相手の言葉が、自分の言いたいことを邪魔されているように感じる。自分の考えていることを変えられたくない。
だから、「するな」と怒る。これはおまえのせいなのだから聞き入れろと、とにかく言いたくてしょうがない。マシンガンをぶっ放したくて仕方ないのにやめろなんて止められたら、うるせえ!と跳ね返してしまうんだろう。
思えば「言い訳をするな」と言ってきた先生も母親も、自分が強い人間だったな。


それが良い悪いは、この際置いておく。
問題は、「言い訳」は、必要かどうかだ。わたしたちが日々を過ごすときに、いるかいらないか。それはちょっと考えなきゃならない。


例えば会社で、社員が会議に遅刻した。
「何故遅刻をしたのかね」
上司がこう問うたとする。社員は遅刻した訳を述べる。
ここで、この「訳」が「言い訳」になるのか、「理由」になるのか。その会社という組織の在り方が、とてもよく分かる瞬間だと、わたしは思っている。


何故か。
その会社が「よくなる」のに、「訳」はとてつもなく大事なものだからだ。
「訳」は、個人の話だと個人のさじ加減にしかならないけれど、誰かとよりよい何かを育んでいくためには、「訳」は本当に必要不可欠なものだ。
これは会社に限った話じゃなくて、家族とかにも同じ事が言える。


何故か。
さっきの例でいくと、その訳を聞き入れるか聞き入れないかで、こうも変わる。
「実は、別件でトラブルの処理をしていたら、間に合わなくて……」
「そういう言い訳はよろしい。座りたまえ」
今どきこんな言葉遣いをする人はいないかもしれないけど、これだと確かに、時間の省略にはなるだろう。その場はエコだ。


「実は、別件でトラブルの処理をしていたら、間に合わなくて……」
「それは、誰かに代わってもらえなかったのかね?」
「自分ひとりしかいなかったので、手が離せなかったのです」
「君のスケジュールには会議が入っているのに、その場にはひとりしかいなかったのかい?」
上司は驚いて、社員のスケジュールと現場の状況を改めて確認した。違う問題が浮き彫りになった瞬間だ。


「訳」は、あなたの目には見えない問題を、はっきりと示してくれることもある。
それを面倒と思うか、良いことだと思うかは、会社などの組織の自由だ。けれども、これだけは言えるだろう。それをほったらかしにしておけば、ほったらかしにした組織は、必ずおのれの首をしめるのだ。
「言い訳」とは、「言い訳」をした人が持っているボールではない。「言い訳」をされた側の人が何を思い、どう対処していくかのボールだ。
だからこそ、「言い訳をするな」と言われたわたしは、あんなにも不満だったのだろう。自分ひとりのボールだとばかり言われていたのだから。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
もし自分に子どもが授かったとしたら、ぜひとも「たくさん言い訳をしなさい」と言いたいね。