次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

ひとつだけではないはなし

「病気になりました」という話をするにおいて、大切なことがひとつあると思っている。

それは、病気になったからと言って寝たきりになった訳じゃないし、病気になったからと言って毎日楽しくないことがないとも限らないという話だ。現に、記事を公開してすぐに、友人から「平日暇になるならランチでもどう?」と誘われた。ありがたいことだったので、すぐに引き受けた。

仕事自体はおやすみすることにしたのだが、休んでいる間に、ランチを食べに外に行く。人によってはこれを「卑怯だ」「本当は元気なのだろう」と言う人もいる(わたしの母はそうだった)。

しかし現実は、元気ではない。ランチを食べに行くのはほんの数時間だが、仕事は8時間だ。外にいる長さが違うし、背負う責任も違う。自分の体力は、ランチは出来ても仕事は出来ないのである。そこは自分の身体なので、しっかりと分かっている。分かった上でゴーサインやストップを出している。 

 

何が言いたいかと言うと、「あれが出来るんだからこれも出来るだろう」という思い込みは、ものすごく怖いということだ。

物事ひとつ違うだけで、違う物が求められるかもしれない。やり方ひとつ違うだけで、使う知識が違うかもしれない。これは何も病気に限った話ではないと思う。

わたしたちは文章や姿形、言葉から性格や人となりを想像するが、その想像に縛られてしまうと、コミュニケーションは破綻する。目の前にいるその人ではなく、「自分が考えているその人」と会話することになってしまうからだ。

 

素直に人を受け入れることは、歳を取るにつれ、段々と出来なくなってくるだろう。経験が想像を呼び、思い込みはどんどん加速する。たった一本の道しか、これしかないと信じられなくなってしまう。

これを突破するには、いつでもわたしの中に疑いを持つことだ。目の前にいる人は一体誰なのか、考え続けることだ。

生きている人間はキャラクターではない。日々考え方はアップデートされるし、機嫌によって同じ言葉をかけてもまったく違う返しをしてくる人なのかもしれない。

生きている人間はキャラクターではない。怒りっぽいからといって、その怒りがその人の本質だとは限らない。笑顔が多いからといってその人が落ち込まない人だとは限らない。

明るくて素直で真面目だと人から言われたわたしが、今こうして再び病んで仕事を休んでいるように。人はひとつの状態をずっと保ち続けている訳じゃない。

これを忘れてしまった時、人から思いやりや優しさというものは一気に消えてしまうだろう。相手の背景を考えることがなくなってしまうからだ。

 

相手の背景を考える人は優しくなれる。事情を理解する人は周りを見る目が育ち、賢く逞しく生きられる。

情報が溢れ、人が若いながら早く賢くなる時代になりつつある。何も知らずに人を攻撃することは悪だと捉えられる時代。

知ることもだが、目の前のことをしっかりと見る力も育んでいきたいものだ。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

最近は、悪とは何かと、悪を疑っています。

道半ばの躓きに

驚いたことに、病み備忘録のときの病気が、再発してしまった。

いや、厳密に言えば、「ぶり返し」ではない。前とはまた違う環境になって、新しいこと、初めてのことが、津波のように、どおっと轟音を立てて流れ込んできた。わたしの周りにごたごたと物を置いて、言葉を置いて、必死になりながら退かしているうちに、その場にばたりと倒れ込んでしまった。すごくぼんやりとした語り方をすると、そういう感じです。

ぷつりと。糸が切れてしまった。活動の糸と言うのだろうか。気力の糸と言うのだろうか。がんばるぞと思うと身体が震えるようになってしまった。これは困った。

 

1週間前まで、引っ越し疲れだとばかり思っていた。

はじめに、朝に吐き気が来るようになった。引っ越し疲れで、身体が慣れていないだけだとごまかした。翌日会社に行くと、新しく任された、慣れない業務が身体を刺す。家のことや将来のことが頭に過り、目の前のことがぼやけて見えるようになった。

次に耳鳴りが来るようになって、理由のない不安に、デスクでむしょうに泣きそうになるようになった。あ、これはまずいと、前の経験からそう思った。この状態になってくると、おそらくは悪い方向に転がっていくばかりだ。嫌な予感が、するぞ。

 

これはあの時と同じかもしれないと、心のどこかで感じ始めた。それでも、今月末になれば、一息つける。今月末になれば良い。今月末まで身体が耐えれば……と奮い立たせた。何なら今週末になれば3連休だし、そうなれば休める。休める、休める……と、己に暗示をかけるように言い聞かせた。

そして昨日。おそろしいことに、空腹感を感じなくなってしまった。

食べても食べなくても、飲んでも飲まなくても、今自分がお腹が空いているのか空いていないのか、まったく分からなくなってしまった。道端に青々と茂る木や草に目を向ける余裕も、だんだんとなくなってしまった。視界がだんだんと閉じていく。頭の半分くらいが、黒く塗りつぶされていく。

本当に、このくらいの時期になると、異常に物忘れが激しくなったり、簡単な計算が出来なくなったり、脳が麻痺をしている感覚に陥る。わたしはまだ軽いが、うつとは、気分が沈むだけの病気ではないのだ。いつかの気力に溢れている自分のやり方を忘れてしまい、しかしいつかの自分に夢を見てしまい、現実の自分に絶望してしまう。

「うつのひとにがんばれを言ってはいけない」は、そういうことなのだろう。いつかの自分に「頑張った」結果戻れるのならば、そもそも病気になったりしていない。戻れないことに一番苦しんでるのは本人だ。

 

そんな時に、彼氏さんはわたしに言った。

「診断書もらって休むことって出来ないの?」

あ。

目から鱗と涙が一緒に落ちるようだった。

耐えることに夢中で。過ぎゆく時間を待つのに夢中で。

わたしはまた、自分から行動を起こすということを、忘れてしまっていたらしい。自分から辛いのだと声を上げることを、すっかりと忘れていた。

でも、今の仕事進捗が遅れていて……。今休むともっと遅れちゃって……。向こうの人にも迷惑がかかってしまうから、明日は行かなくちゃ、せめて明日は……。

「仕事よりもひおりちゃんの体調の方が大事だよ」

「辛いなら無理しないで休んでも良いんだよ。仕事よりもって言うと怒られるかもしれないけど、体調の方が大事っていうのはみんな分かってると思うし」

それでも、と言い掛けて、わたしはある重大なことに気付きました。

仮に、頑張って会社に行ったところで。また目の前のことに集中出来ず、時間を無駄にしてしまうだけなのではないか。

いつの間にか、わたしは「会社で仕事をする」のではなく、「会社で仕事に耐える」ことを目標にしていました。神経をすり減らすことをただただ自分の身体にたたき込もうとしていたのです。

 

思い切って、休むことに決めました。今行ってもまったく仕事が進むイメージが沸かなくなってしまったので、もうきっぱりと、今日、これ以上は無理だと言ってしまいました。

精神科に行きました。前と同じ病名の診断書をもらいました。

すぐに彼氏さんに連絡を入れました。

 

「じゃあ、半月は安静だね。お家でゆっくりしてね!」

 

ああ、前と違うのは。実家で同じ病気になった前と、明らかに違うのは、ここだ。

心から、そう感じた。同時に、この家に居る限りは、何度だってやり直せる。ベッドの上で動けない全身を横たわせながら、そう思った。

彼のためなら、「頑張らなきゃ」じゃなくて、「頑張ってみよう」と思える。彼は「無理しないでね」と言ってくれるのだけれど、彼のためにやり直したいと思える。

 

一番ありがたかったのは、「こうすれば良かったのに」という、アドバイスのように見えて今のわたしには責め立てられる言葉を、彼氏さんはまったくかけて来なかったことです。

反省することは大切だけど、もう少し元気になったら、自分でします。なので今は、少し休ませてほしい。

言わずとも伝わったのかは分かりませんが、今、少なくとも絶望ではなくて、彼と会えて良かったという幸運を噛みしめられています。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

病み備忘録第二章が始まりそうですね。何を書こうかな。

曲がりくねった分かれ道の中で

台風など存在しなかったように晴れ渡った空の下通勤してきました。好母ひおりです。自然災害の多さは誇れるものではないけれど、その対処法を知っているのは武器になりえることだと感じます。

 

さて、少し更新の日が空きましたが、何をしていたかというと、新生活の準備でドタバタしていました。生活環境の違いに身体が蝕まれ、倒れそうになりながらもどうにかこうにかしてた訳です。共働きで料理も作れてお風呂も沸かせる人は生活のコツを教えてほしいです。

 

そして、もうひとつ、大きな分かれ目がやってきました。このブログは元々「病み備忘録」を書くために設立し、その記事の中に「時が来たらお暇させてもらう」とも書いたのですが、その時が来ました。

次にどうするかはまったく決まっていません。新しい生活に慣れないままにそうなったりしたので、公私共に激動過ぎる日々を過ごしているのが現状です。

前に「ライターになりたいな」ということを言ったと思いますが、それが夢のまま終わるか、夢にならずに実現するか、別の形に変わるのか。選択肢はわたしの手の中にあります。生かすも殺すもわたし次第です。

 

そうなったとき、考えるのは、己の文章で食べていくということについて。無償で綴っていたこの文章に、お金という価値が付けられるかということについて。

お金が発生するということは、自分に何かしらの魅力がなければ読んで貰えないようになります。もしかしたら興味のあるテーマで引きつけて読んでもらえるのかもしれませんが。

あちこち思いついたことだけを綴ってきた好母ひおりという人間に、ネームバリューはほぼないと思っています。

いや、それでもやらねばならぬという気持ちと、無理なのではという気持ちが、今火花を散らしている最中です。そんなことを考えながら生活していると精神はすり減る一方です。身体の危険信号を感じつつ動いています。

 

生きるのは難しい。素直に生きることの難しさを、身に染みて実感しています。この実感はやがて何かの糧になることを信じながら、痛みを味わっています。

ただ、何も悩まずに生きるというのも、それはそれでつまらない。なぜなら、空っぽになって生きたところで、何も生まれないし、思い出も増えないのだから。

 

難しいを楽しいに思えるまで。今がおそらく踏ん張りどころなのでしょう。

とりあえず、今すべきことは、次の仕事を探したり、退職後の手続きを考えるより、心を素直な方向に整えることだ。それだけはなんとなく、誰に教えられるでもなく、感覚として分かるよ。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

自分の人生を素直に生きることが、わたしの目標なのかもしれません。

ほめる屋さん、を考えたはなし

編集者やライターになりたいという話はこの前したと思うが、ふと、「ほめる屋さん」ってどうだろうと思った。

ネットの波が広がっている今。いろんなもののレビューが散見されるが、それを読んで感じるのは、「公式サイトからの引用が多いなあ」ということだ。公式サイトの宣伝文句を持ってきたら、間違いはないかもしれないけど、新鮮さがない。

それは、人間にも同じ事が言える。他の人が言う「あの人ってこうよね」という記号付けは、ものすごく簡単で、楽で、考える必要がない。自分のPRを考えるのもそうだ。その記号付けをどうにか噛み砕いて持ってくるしかない。そして自分の力で噛み砕いたそれは、後ろ向きな色を帯びている。

 

人を褒めるビジネスというのはきっとたくさんあると思う。わたしが今考えたのは、「ツイッターからの人間性診断」だ。インスタは多分少し違う。あれは人に見せるためのものだ。

昔からツイッターをやっていると、ツイートにはその人の特色が濃く出ることがよく分かる。たとえばわたしは長文ツイートが多く、ものの分析ごとが多い。ここだけ見ればただの傾向に過ぎないが、わたしがやりたいのは「ほめる屋さん」なので、そこから素晴らしいところを探していく。

自分で自分を褒めるのは難しいが、ツイートから見るわたしの良いところは、「深い分析力と思慮深さ」であることは間違いないだろう。「深くものごとを考えられるのはあなたの武器です」と、こうなる訳である。自分で自分のことを言うとどうしても「すでに分かっていること」になってしまうので浅く見えてしまうが、そういうのってないのかな。ちなみに長文ツイートをする人はものごとの切り替えがすぐに出来ない傾向があるという欠点もありますが、これはひとつを深く考えられることの裏返しですよね。

(もちろん例外もあるでしょうけど、それはそれで、その人の良いところですよね)

 

自分という情報が、広く自由に発信できるようになった時代だ。それを逆手に取って、どんな素敵なところがあるのか伝えるような試み、ちょっと楽しそうだなと思ったりした。「自分を知って欲しいけど顔を見られるのはちょっと」と感じる人が多いからこそ、匿名感想ツールがここまで流行っているわけですしね。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

自己PRに悩んでる人が多いのをよく見るので、その助けにならないかなとぼんやり思ったりしてます。

選択は、妥協より希望

机の上やクローゼットにあった物が空になると、いよいよ引っ越しが近づいていることを実感する。大きな足音がすぐそこまで来ている実感が、じわじわと波となって押し寄せてくる。

 

寂しさがないかといったら、ないとは言い切れない。もちろん、今まで住んでいた家から離れるのだから、全部が全部今まで通りなんて訳にはいかないし。何より一緒に住む人が変わるのだから、そこの不安もある。

 

今まで他人だった者同士が、住まいを共にする。つくづく、不思議なことだと思う。成長でも、強制でもない。ただ、そうなりたいと思ったからそうしたというだけだ。ご飯も歯磨きもテレビ鑑賞も、今からずっと離れない場所に彼がいる。

 

先日と今日、彼から訊かれた。

「ほんとに一緒に住むのが僕で良かった?」

何気ない日常会話の隙間に滑り込んできたそれは、気軽なようでしっかりとした重みがある。彼がどんな気持ちで訊いてきたのかは、正直分からない。1回は顔を見ていないときに言われたし、1回はLINEで言われたものだから。

なので、正直な気持ちを返すことにした。

「彼氏さんが良いです」

間違いなく、妥協ではなく希望だった。わたしはやろうと思えば、友達とルームシェアをする計画もあったし、独り暮らしをすることだって出来た(独り暮らしは勇気がなかっただけな気もするけど)。今の時代、別に人と付き合っても付き合わなくても自由なのだから。

人から良く思われたくて彼と住むんじゃない。もっと言うと、わたしは今の家から逃げたくて彼と暮らすことを決めたんじゃない。彼と暮らしたくて彼と暮らすことを決めたのだ。

一緒にいるとトラブルが起こっても楽しくて、自分のことを大切にしてくれる人だから、そうしたいと願った。他の誰かじゃ務まらない。今の自分の心は間違いなく、彼だけを指名している。他の誰かは選択肢にすらないのだ。

 

これは、本当に不思議だ。何年もつきあいのある友人は、何人かいるのに。友人達のことは好きだというのに。一緒にホテルに泊まった時だって、すごく楽しかったのに。ルームシェアの話だって出ていたし、そうするかとすら思っていたのに。

一緒に暮らすとなったとき、くっきりと現実味を帯びた想像が出来て、これを夢物語で終わらせたくないと願ったのは、ただひとりしかいなかった。

「パートナー」とは、こんなにも直感的に、こんなにもしっかりと意識がある状態で選ぶことが出来るらしい。驚いた。

 

この選択が正しいかは未来の自分にしか分からないけれど、とりあえず今はこの直感をひたすら信じてみようと思います。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

着実にライフステージが次へと進んでる感覚が、時間の経過に連れて身に染みる今日この頃です。

 

神経質に優しいボールペン「ブレン」のはなし

今日は、いつもの考え事ともまた少し違う話をしたい。と言うのも、偶然東急ハンズで買ったボールペンが、それはもう良い出来栄えだったからだ。正直びっくりした。今まで「書き心地がよすぎて無駄に字を書いちゃう」なんて夢物語だと思っていたけど、今日の仕事中、いつもより1,5倍多いメモを取っていた。

 

夢物語が現実に。そんな魔法のアイテムがこちら。

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ゼブラさんが出している、ブレンというボールペンです。詳しくはこちら。

https://www.zebra.co.jp/pro/blen/

簡単に言えば、「字を書くときのストレスを排除する」という、今までにないコンセプトで開発されたボールペンです。サイトがおしゃれで素敵なので、詳しい仕組みはぜひサイトを参照してください。

いろんなブログでレビューが載っているので、そういうものを参考にしても良いと思います。

 

わたしが買ったきっかけは、ズバリ、デザイン。このパステルピンクの色合いがたまらない。大好きな色です。ノック部分の楕円もなめらかでおしゃれ。

元々文具は好きで、学生時代は万年筆やボールペンにはまっていた時期があったわたし。

社会人になってからも手書きのメモが好きで、上司や先輩に教えてもらったことはすべてノートにメモ。でも、昔から油性ボールペンが苦手だった。油性ボールペンの、書いたときの線がてらてらと光る感じと、線がしゅっと引かれない感じがすごく苦手だった(こればかりは感性の問題なので、今思えば仕方ない)。かの有名な油性ボールペンも、書き味はなめらかだけど、書いた後の線がどうも「しまらない」のが苦手だった。

 

そんなわたしの最近までの相棒は、サラサドライだった。くっきりと切れ目なく書かれる線、マットな質感、どれをとっても好みだった。それでも、いくつかの欠点はある。

ブレンは、その欠点を見事にクリアしつつ、ストレスフリーな使い心地を届けてくれたのである。まさにあっぱれ、ブレン様、ありがとう。

 

○ブレンは水に強い

今の職場では少なくなったが、前の職場はエアコンがあまり届かない場所にデスクがあったので、じっとりと腕に汗をかきながら仕事をしていた。

汗がノートについたとき。サラサドライのような水に溶けるインクの場合、とても恐ろしいことが起こる。つまり、こうだ。

べたっじわっパー。

せっせと汗水垂らした分、書いた文字がパー。ちゃらけて言っているが、大事なメモが汗に流れて結構へこんだ時もある。

しかし!ブレンは違う。試しに水をノートにこぼしてみたが、滲んでいない!まるで何事も無かったかのように涼しい顔をしているのだ。水がこぼれた?そう、それが?と。この時点でわたしは拍手喝采だった。夏のお供決定の瞬間だった。

ブレンは油性でも水性でもないエマルジョンインクという、ゼブラでしか扱っていない油と水の間のような特殊なインクを採用している。なので、油性の質感が苦手だけど水に滲んでほしくなかったわたしにはとてもぴったりだったという訳だ。

 

○ブレンは持ちやすい

わたしはボールペンを持つとき、すごく下の方を持つくせがある。

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これは何度か治そうとしたものの、自然とずるずる下がってきてしまう。何が困るかというと、上の写真でいうと黒いラバーグリップとプラスチックの間に中指が来ているのがお分かりだろうか。これ、長時間使っていると、中指にグリップの先が当たってかなり痛い。上の方に持ち直して下がり、上の方に持ち直して下がりの繰り返しになっていた。

さてブレンはというと、こちら。

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最早天晴れの言葉しか見つからない。下の方を持つ人でもグリップの切れ目が中指に当たらないデザインになっているのだ。これはわたしにとって本当に革命だった。

ブレンは「シームレスなデザイン」を謳っているが、このような持ち手にまで気配りをしてあるとは……!と、好感度がうなぎ上りの滝登りだった。見かけで惚れて買ったものだったが、見かけ倒しではないとは素晴らしいことだ。

 

○ブレンは気が散らない

わたしは職業柄、ボールペンを持った状態でマウスを動かしたりする。そうすると、普通のノック式のボールペンだと、ペン先を出している場合、必ず凹んでいるノック部分が動いてかたりと音を立てるのだ。マウス、ノート、マウス、ノート、と行ったり来たりするたびにカチャンカチャンと小さく鳴る。わたしはこれが嫌なので、メモが終わる度にペン先を戻していた。細かいことかもしれないが、仕事中は集中しているので少しの音が気になってしまうのである。

そしてブレンはなんと、もうお分かりだろう、ペン先を出して振っても傾けても音がしないのである!

直立不動、悠然と佇むその姿は、圧倒すらされる。まさかここを気にしてくれるボールペンが現れるとは夢にも思わなかった。もちろん、書いてる途中もカチャカチャ言わない。ペン先が猛威を振るうだけで、軸は大人しいものだ。

サイトでは書き心地についてが詳しく記載されているし、実際ゼブラさんのこだわりもそこなのだろうけど、そのストレスフリーな書き心地を生かすためにストレスフリーなデザイン設計をしているということなのだろう。素晴らしい!

 

ここまで褒めちぎっておいて何だが、ブレンは集中が求められる職場でない限り絶賛はされないかもしれない。大半の人は試し書きをして購入するが、その時は書き心地のみを見ている可能性が高い。

 

これははっきり言いたい。ブレンの良さは試し書きでは分からない。

なぜなら、「書き心地がいいボールペン」なんていくらでもあるし、そもそも「書き心地」なんて人の好みによるところも大きい。

文字を線をたくさん書いて初めて、ブレンの最大の良さ、「いつも一緒にいるけどいつの間にか助けられている」が実感できるのだ。他のボールペンに持ち替えた時によく分かる。使っている感覚が違うので、もう俺はお前なしでは生きられないになってしまう。

ボールペンで文字を書くとき困ったことがあったりしたら、これを機にブレンに変えるのも手だと思う。なんせ1本150円だから。

筆記に強いこだわりがある人にもおすすめしたい。このボールペンはとことん「アレルギーフリー」みたいなボールペンなので、どんな人にも扱えるだろう。気軽に買っちゃいなよ、なんせ1本150円だし。

あ、調べたところパステルカラーのブレンは8月30日から販売予定らしいですが、イオンや東急ハンズに売っているところはあるみたいです。数量限定らしいので買うならお早めに。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

物に「科学」を感じると、純粋な好奇心と文化の発展に嬉しくなりますね。

 

 

完璧を求めずとも

わたしはこのブログで、彼氏さんの悪いところはほとんど書いていない。それは彼氏さんが、悪いところなど何一つないパーフェクト人間だからかと言われたら、そうではないと思う。わたしが彼の悪口を書こうとしていないからかと言われても、そうではないと思う。

ひとつ話をしよう。
先日、彼氏さんと家具を探すために買い物に出掛けた。彼氏さんは車を持っていないため、バスで行った。
その日はすでに家電やネットなど、色々見回った後なので夕暮れになっていて、ふたりともへとへとになっていた。疲れたなあ、疲れたねえ、とお互いにぼやきながら、薄暗い夕焼けの下でバス待ちのベンチに座っていた。
1時間に1本しか通らないバスを、その日は20分待って、ICカードを通して乗った。太陽が照りつけた後の体に、クーラーの冷たい風が吹き抜ける。
地元を軽快に走るバス。懐かしい景色を見ながら、わたしは懐かしい話をした。小学校の話。昔住んでいたアパートの話。


「この景色、僕の地元に似てるかも」
「本当?そしたら、いつかそっちの地元に行ってみたいです。正月とかに」


ゆるやかな会話を続けて、バスは目的地にたどり着く。降りたとき、もう外は真っ暗になっていた。少し欠けた月が空に浮かんでいて、車が道路を横切る音は昼よりどこか怖く聞こえる。
家具のお店は、バスから降りても看板が見えないくらい遠い場所にあった。疲れた足に鞭をうって、歩を進める。
地元は博多じゃないけれど、博多とんこつラーメンのお店の前を横切った。


「看板、新しいですね。ラーメン食べたくなってきちゃった」
「そうだね、おなかすいた……」


その日はふたりとも忙しくてお昼を食べていなかった。疲れで空腹を埋めていたような状態だった。たまに横からお腹が鳴る音がする。とても良いとは言えないコンディションの中、街灯より車のヘッドライトの明かりが頼りになるような暗闇の道を歩く。
5分歩いても看板は見えない。わたしは何気なく空を見上げた。


「月、綺麗ですね。隣に星が見えるけど、あれ以外見えないな」
「ほんとだ。あれ惑星かもしれないね。木星あたりかな」
木星?あんな月の近くに見えるんですか」


視界の端には高速道路が見えていた。太い車道が通った大通りの脇道を、並んで歩く。


木星って、望遠鏡で見ると他の星も見えるんだよ」
「え!そうなんですか。囲まれてるような感じなんですか?」
「囲んでるっていうか、並んで見えるね」


学生の時、天体クラブ的なものに所属していた彼氏さんの星の知識を聞きながら、歩く。体も頭も疲れていて、お腹も空いていたけれど、なんだか心は楽しかった。
結局、15分以上歩いて、ようやくお店に到着した。色々見たあと、実際に買うのはまた日を改めることにして、帰りも15分以上歩いた。バスの時間が近かったので、残念ながらとんこつラーメンは食べられなかった。


この日、やろうと思えば、車を走らせてふたりの体を疲れさせないことも出来た。そうすれば、時間も遅くなくて済んだし、バスの時間を気にすることなく寄り道してラーメンを食べることも出来たかもしれない。
完璧じゃない。でも、車で来てたら、わたしは木星の話を聞くことは出来なかった。バスで戻った後食べたおいしいハンバーグを知らないまま過ごしていた。


後悔することはいくらでも出来たけど、楽しいことはそれ以上にあった。だからわたしは、この日は楽しかったと、笑顔で言えるのだ。


帰りのバスで、こんな話になった。
「引っ越して料理食べれるの、楽しみだな。また牛トマ(平野レミさんレシピで一番有名な、牛肉のトマト炒め)食べたい、あれは良いね」
「出来る限り料理は頑張ります。でも、疲れてごはん出来ない日とかあるかもしれないので、それはごめんなさい……」
「じゃあ、そういう日は、うどんにしよう。外食にしても良いし、さっきのラーメンとか食べに行こう。それで良いよ」


自宅でご飯は食べたいけど、無理強いはしない、そういうところに救われる思いでした。


「あ、でも、料理するならお味噌汁とかの汁物は絶対作りたいです。お弁当にも付けたいですし」 
「一汁三菜ってやつ?」
「はい。汁物あると、満足感が違いますから。暖かい汁物があると同じ量でも満足感が違うって、前に新聞で読みました。けど毎日三菜も作れるかな、二菜で精一杯かも」
「僕二菜で良いよ。一菜でも良いくらい。お弁当もそれくらいで良いかもね」


今振り返ると、彼もわたしに完璧を求めていないのだと、よく分かります。そういう人だから、わたしはこの人を安心して選べたのだと思えました。
完璧を求めずとも、安心出来る。完璧を求めずとも、楽しむことが出来る。完璧を求めずとも、愛することが出来る。
それは、忘れないようにしたいと思います。これからもずっと。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
完璧を求めないからこそ、安心も、楽しみも、愛も、ゆっくりと握れるのかもしれないですね。