次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

ひとつだけではないはなし

「病気になりました」という話をするにおいて、大切なことがひとつあると思っている。

それは、病気になったからと言って寝たきりになった訳じゃないし、病気になったからと言って毎日楽しくないことがないとも限らないという話だ。現に、記事を公開してすぐに、友人から「平日暇になるならランチでもどう?」と誘われた。ありがたいことだったので、すぐに引き受けた。

仕事自体はおやすみすることにしたのだが、休んでいる間に、ランチを食べに外に行く。人によってはこれを「卑怯だ」「本当は元気なのだろう」と言う人もいる(わたしの母はそうだった)。

しかし現実は、元気ではない。ランチを食べに行くのはほんの数時間だが、仕事は8時間だ。外にいる長さが違うし、背負う責任も違う。自分の体力は、ランチは出来ても仕事は出来ないのである。そこは自分の身体なので、しっかりと分かっている。分かった上でゴーサインやストップを出している。 

 

何が言いたいかと言うと、「あれが出来るんだからこれも出来るだろう」という思い込みは、ものすごく怖いということだ。

物事ひとつ違うだけで、違う物が求められるかもしれない。やり方ひとつ違うだけで、使う知識が違うかもしれない。これは何も病気に限った話ではないと思う。

わたしたちは文章や姿形、言葉から性格や人となりを想像するが、その想像に縛られてしまうと、コミュニケーションは破綻する。目の前にいるその人ではなく、「自分が考えているその人」と会話することになってしまうからだ。

 

素直に人を受け入れることは、歳を取るにつれ、段々と出来なくなってくるだろう。経験が想像を呼び、思い込みはどんどん加速する。たった一本の道しか、これしかないと信じられなくなってしまう。

これを突破するには、いつでもわたしの中に疑いを持つことだ。目の前にいる人は一体誰なのか、考え続けることだ。

生きている人間はキャラクターではない。日々考え方はアップデートされるし、機嫌によって同じ言葉をかけてもまったく違う返しをしてくる人なのかもしれない。

生きている人間はキャラクターではない。怒りっぽいからといって、その怒りがその人の本質だとは限らない。笑顔が多いからといってその人が落ち込まない人だとは限らない。

明るくて素直で真面目だと人から言われたわたしが、今こうして再び病んで仕事を休んでいるように。人はひとつの状態をずっと保ち続けている訳じゃない。

これを忘れてしまった時、人から思いやりや優しさというものは一気に消えてしまうだろう。相手の背景を考えることがなくなってしまうからだ。

 

相手の背景を考える人は優しくなれる。事情を理解する人は周りを見る目が育ち、賢く逞しく生きられる。

情報が溢れ、人が若いながら早く賢くなる時代になりつつある。何も知らずに人を攻撃することは悪だと捉えられる時代。

知ることもだが、目の前のことをしっかりと見る力も育んでいきたいものだ。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

最近は、悪とは何かと、悪を疑っています。