次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

見えないから、美しい

数日前、お花と蛍を見に行った。

「こんな時期に蛍?」と思われるかもしれないけれど(実際、わたしも目の当たりにするまではちょっと疑っていた)、これがもう、川辺に何十匹もいたのだから驚きだった。普段はきれいなお花がずらりと並んだり、ひとつにまとまって咲いているテーマパークが、そのときばかりは「蛍の光」が主役になっていた。
昼の間は華やかな色合いが目を癒してくれていたけれど、夜の蛍は星の光の瞬きによく似ていて、淡くて、かと思ったら強くて、ちろちろと静かに流れる川の水面をほのかに照らしていた。それがもう美しかった。言って伝わるか分からないけれど、光が生きていたのだよね。電飾のような無機質さはなく、光に暖かさが宿っていた。
電気がなくても水面が見えたことに、改めて生き物のすごさを感じる。川辺のごつごつした地面に座り込んでいたので結構足が痛かったけど、それよりも目の前に広がる一面の光に、心を奪われていた。
しばらく地面にとまってじっとしていた蛍は、やがてふわりと舞い上がって、動き出す。彼らは訓練されている訳じゃないから、たまに動く。たまに木から降りる。たまにぽとっと落ちる。じっと時間が止まってるような錯覚を起こし始めたくらいに、動く。そういうところがまた良かった。


そのとき、ぱあっと目の前が不自然に明るくなった。蛍の光じゃないものが、全体を照らそうとした。眩しくて目を細めながら周りを見ると、たぶん、誰かがスマホの画面を川辺に当てたのだと思う。明るくなった目の前には、今まで見えてなかった岩肌や突き出た石、そして小さな蛍が露わになった。
川辺に瞬く星の光は、いきなり川辺に集まる虫の集合体になった。幻想が現実になった瞬間だった。
もちろん、目の前の暗闇で瞬くのは蛍だと、わたしたちは知って見ている。けれど、その一瞬で、わたしたちは「現実」に戻される。ぴかぴかと美しかったものは、ごつごつした何かに支配される。眩い電気に照らされて、蛍の光は消されていた。


ああ、隠れていたからこそ美しかったのだな、と実感した。「蛍」の姿が見えないからこそ、「蛍の光」は美しかったのだ。見えないからこその想像が、わたしの目の前の景色を美しいと思わせていたのだ。
夜の、何も見えない暗闇だから、蛍の生きた光は綺麗だと思えたんだろう。電飾の下だと、それは初めからなかったものになってしまうのか。すべてが明るみに出たら、それは既になかったものになってしまうのか。美しさって、儚いんだなあ。
そんな感傷に浸ったりして、ふわふわ浮いたり着地する蛍をゆっくり30分は楽しみました。たまには水の流れを感じながらゆっくりと過ごすのも良いのですね。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
すべてを露わにすることだけを目的にしたら、美しさを味わう心はなくなってしまいそうだ。