次は戦場で会いましょう

かんがえたことを書き記す。

すてきな「かっこいい大人」

今日は朝の8時から休憩2時間を挟んで、夜の7時くらいまで勇者を操作していました。

ダンジョンの宝箱やキラキラは取り忘れがないか、本の読み忘れがないか、住人との話し忘れはないか、装備の買い忘れはないか、えっちらおっちら指さししながら地図を広げていた勇者の物語も、いよいよ佳境となってきました。

のらりくらりと世界中を回っていた旅に終わりを告げ、絶望の始まりを迎えます。

 

勇者と仲間たち。彼らの表情が苦痛へ染まっていくところは、思わずコントローラーを握らずにはいられない。オーケストラの哀しみを彩る音楽が、プレイヤーをまた感情移入させる。

ああ、ここであの時のようにデインを放てたらどれだけ良かったか。先に輝く光の中に飛び込んでいけたらどれだけ良かったか。

嘆いていても、笑っていても、黙っていても、物語の行き先は変わらない。暗闇の面積が増え、ソファに座ってコントローラーを握る自分の顔が見える。

次へ次へと目まぐるしく展開が進むので、終わりがない。きりがない。ソーシャルゲームのように、スタミナがあるわけじゃない。プレイヤーが進もう、進めたいという気持ちさえあれば、どこまでも進められる。ゆっくりとレベルを上げても、急かす人間はいない。物語のページをめくる手が止まらない。途中、ジュースをコップにつぎに行く時でさえ、心は焦っていた。

早く彼らの行く末を見たい、と。

 

そして、昼を過ぎた頃だったか。わたしは「幸せの国」に辿り着いた。

そう、その国では誰もが幸せだった。穏やかで、厳かで、華やかな城。幸せなカップル。幸せな夫婦。お笑いのような奇策。かわいらしい悩み。そして、国のみんなから愛された子。国から祝福された夫婦。平和を体現するような音楽は、聞いている人をとても良い心地にしてくれる。

暖かな光が城に注ぎ込んでいた。皮肉でも嫌味でもなく、本当に、そこは幸せの国だった。最初から最後まで、光が絶えることはなかった。その光に背を向けるまでは。

今。この記事を書きながら、わたしは涙を流している。彼の「幸せ」を思い出し、そのあまりの幸福さと、穏やかさに。

思い出すたびに。その幸福のかたちが、まっとうで、真摯で、優しいものだったことを知る。そのあまりにも心地良い幸福が、わたしの心をあまりにも暖かく照らしている。

それは、あまりにも。

ああ、彼は、きっと表で描かれるよりも、ずっと優しく、人を想い、強かった。言葉だけで語られるよりも、その実感は激しく胸に押し寄せた。

 

いや、泣いてしまった。今も泣いている。

前から悲しいシーンじゃないところで泣くことはあったが、優しすぎて泣いてしまうというやつなのだろうか。

このゲームに出会えて良かったと心から感じた。きっとひとの強さとは、こういうところに秘められているのだろうと、彼と共に強く頷いた。

ドラゴンクエストは王道RPGの筆頭のような立ち位置だが、何も「魔物を倒し、魔王をこらしめる」だけのものではない。

人の強さと優しさ。諦めない心。誰かの手を取って引き上げることの素晴らしさ。そういうことを教えてくれる。同時に、欲望に従ってしまう愚かさのようなものも。

ああ、「詰まっているからこそ、王道RPG」。と、言えるのかもしれない。きっとひとつも欠けてはいけなかった。そのすべてがあの「かっこいい大人」をつくっているのだから。

このゲームをわたしの父が気に入っていた理由が、分かる気がした。思えば彼もめったには怒らない、無口だけど優しい心の持ち主だ。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

おそらく、最後の仲間に会いました。なんとか協力していきます。

おばあちゃんとあみタイツ

タンスに入っているものを見られたり、ましてや下着をとられたりしたら、恥ずかしい。恥ずかしいどころか、この世の中では訴えられてしまう。人間にとってタンスの中を覗かれるのは、裸を見られたかのように恥ずかしいのだ。今回はそんな話である。

 

ある日、大都会を旅していた主人公、もといわたしは、ある家におじゃました。ダイニングテーブルや椅子は木製の立派なものだが、そんなものには目もくれず、わたしは一直線にタンスを目指した。中に何か入ってるかもしれない。

そして至って涼しい顔をして、タンスを開く。中にはほかほかの(かは説明がないが)あみタイツが入っていた。頭の中では男しかメンバーがいないので着る人が居ない、としか考えていなかった。

タンスの近くには、腰が曲がったおばあちゃんがいた。そして明らかに主人公を見ながら、主人公に向かって、このように言ったのである。

「あ、そこは……」

あっ。すみませんおばあちゃん。このあみタイツ、おばあちゃんだったんですね。へへへ、間違えました、失礼しました。へへへへ、気をつけやす。

とは言えない。残念ながら、おばあちゃん愛用のあみタイツは、主人公の懐にしまわれてしまった後だ。こんなにも手に入れたアイテムを元に戻したいと思ったことはない。ああ、ごめんよおばあちゃん。もしかしたら新調したばかりだったかしら。しかし、既に後の祭り。後のあみタイツだった。心に傷を残したまま、わたしは家を後にした。

 

一応説明しておくと、主人公は世界を救う勇者であって、各地の下着を集める下着ドロボー、下着マスターではない。しかし先ほどちらりと出たように、住民のタンスや壺、本棚にあるアイテムを手に入れたり読んだりすることで、手に入る知識もあるのだ。あみタイツの知識については余計そのものだが。

今までは人の家のタンスを開けたり、引き出しを開けたりしていても、周りの人は涼しい顔をしていた。実は主人公が取っていくために置いておいたのではないのだろうかと思うほどに、その空気は暖かく、無関心だった。

だが、今回はそうはいかなかったのだ。あの一瞬、おばあちゃんが絶望したような、とても悲しい顔をしたことは、今でも忘れられない。一度出したあみタイツは、もう二度としまうことは出来ない。

 

今回の物語は、全体的に「勇者とは何か」を主軸にしている。おばあちゃんからあみタイツを奪っても、彼は世界を救う勇者なのである。勇者とは何か。今まで散々別媒体でネタにされてきたような事に、改めて「ツッコミ」のような、「自虐」のような、「タンスを開けられたおばあちゃんの反応」を差し込んできたドラゴンクエスト11S。リアルとファンタジーは衝突する……そんなことを思わされたあみタイツの一時であった。

 

ここまで読んでくださりありがとうございます。

足から下が魚の人に会いました。ガンガンいこうぜ

暇をもてあまし、味わい、かみしめる

ドラゴンクエスト11Sの体験版がようやく終了した。

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魔法を使える姉妹が仲間になったところで、冒険の体験は終わりを迎えた。一体いつになったら体験は終わるのかと、かれこれ8時間ほどボタンとスティックを懸命に動かしていた。かつての30分もせずに終わる体験版など、時代遅れになってしまったのだろうか。そんなレベルのボリュームだった。

終わりを迎えて思ったのは、とにかく登場人物ひとりひとりのボリュームがすさまじく、町や物語としての作り込みもとても丁寧だということ。

酒場の前で「1杯だけ飲もうかなあ」と悩んでいる荒くれ、「暇じゃのう」とベンチに座って呆けているおじいさん。良い感じ!と石造りの台所でソーセージを焼いていたお姉さん。これらの人物は、主人公と何も関係ない人達である。彼らから特に目的地の情報をもらえることはないし、魔法を教えてもらえることもない。ただの日常の「ぼやき」のようなものをふきだしに浮かべているに過ぎない。

しかしそれらの人物を見かけるたびに、その町が生きているような感覚に陥るのだ。朝に起きて、昼にごはんを食べて、夜に眠る。そんな町の光景を想像させてくれる。最早主人公にとって有力な情報を教えてくれるだけの、装置としての「村人A」は絶滅危機種と化した。

 

モンスターにしてもそうである。彼らはフィールドにいる時、3Dモードであれば、突然出てくる訳ではない。草むらでゴロゴロ寝そべっていたり、ぷにぷにと道を歩いていたり、時には数匹で固まって行進したり……きままなスローライフでも過ごしているようなモンスターの姿がそこにある。彼らに向かって容赦なく斬り掛かってしまえば、まるでこちらが悪者になったようだ。

時には遠くから、人々やモンスターの姿を眺め、その生活の姿を観察するのも楽しい。朝にきりかぶおばけのすこやかな寝顔を見れた時は、思わずそのあまりのすこやかさに笑ってしまった。きちんと目を瞑って寝ているのだから、可愛らしさすら感じてしまう。

かつて、「エンカウント」して、「たたかう」をして、イラストが点滅して、画面からパッと消えるだけだったモンスター達。丸みと温かみのあるデザインを生かすように、その生きる姿を見せてくるようになった。このような広大な世界観に包まれながらゲームを進める感覚は、据え置きゲームならではだろう。

 

後ろをついてくる仲間達も、また生きていることを感じさせる。勇者が立ち止まっていると、赤い帽子の女の子は、暇そうに辺りを見渡したりしている。それでも急かしたりしないのは、相手が勇者だからなのだろうか。これが盗賊の青年になどなったら、文句のひとつでも飛んできそうだ。

戦闘中、敵を倒す度に「ナイス!」「やった!」と喜び、回復をすると感謝してくれる仲間達。キャンプをすると、ナイフの手入れをしたり、暖かい飲み物を飲んだり、思い思いに憩いの一時を過ごす仲間達。このような旅の思い出の重なりが、今後どのように物語へと影響していくのか……。それは、製品版でしっかりと確かめるとする。

 

攻撃と回復魔法をそれぞれ使う姉妹、故郷と幼馴染み、運命を変える時間旅行、まほうのグッズと旅の扉。今までのドラゴンクエストのエッセンスを故意に集めてきたような懐かしさも、随所に感じています。炎が燃え盛る大地を抜け、砂漠を駆け抜けながら、次のステージに向かうとしよう。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

たくさん寄り道しながら、隙間を味わっていきます。

旅の扉を叩いてみる。

買い物から帰り、牛乳とオレンジジュースを冷蔵庫にしまった後、スイッチのコントローラーを握りしめてソファの前に座る。ドラゴンクエスト11Sとわたしの繋がりは、今から始まろうとしている。

この、「よし、今からやるぞ」とコントローラーを握る瞬間が、わたしは好きだ。この「よし、今からやるぞ」が面倒で据え置きゲームから離れてしまった人は数多くいるのだろう。わたしもこれが作業が中心のゲームだったら、携帯バージョンにしてプレイしたのだろう。

しかし思いのほか、この「よし、今からやるぞとコントローラーをテレビの前で握り締める」感覚は、意識を変える。背筋を正そうという気になるとでも言うのか。物語への没入感が違ってくるような気がする。あくまでも気分の問題だが。これは、電車とか外ではプレイ出来ないだろうなあ。

 

体験版を選ぶと、あの聞き慣れたオープニングの音楽が、金髪の女の子が奏でる楽器とともに風に流されていく。テレビのスピーカーに乗り、わたしの耳に届く。右下にくっきりと交響楽団の白い文字。

暗く、しかし鮮やかな森。駆け抜ける白い馬。空に浮かぶ思い出を仰ぎながら進む主人公。

記憶の欠片を確かめながら、雄大な大地と空が広がり、物語の始まりを告げる。主人公が高らかに雷の一閃を放ったところで、ドラゴンクエスト11Sのオープニングは終了する。映画の始まりでも見るようだったが、しかし、プレイヤーは今からこの世界に飛び込んでいくのである。楽しみだ。

 

主人公の名前を入れる。いつもゲームで男主人公を使うならこれという名前があるので、それを使った。見慣れた黒い背景に白いウインドウ、選択肢を選んだ時のピロリ、という音。数年前にドラゴンクエストをやったときと、何も変わっていない。形式美と呼べば良いのだろうか。

更にオープニングは進む。どうやら、この体験版は、本編のままをプレイをさせてくれるらしい。製品版を買ったら、その続きから出来るんだとか。

親切というか、太っ腹というか。昔、DSのソフトの体験版をやったら、戦闘の一部を体験させてくれるだけとかだったのになあ。

 

それから1時間、しっかりと目に焼き付けるように、はじまりの村を駆け抜けた。かわいい幼馴染みと、そのペットを連れて、魔物と戦う。覚えたての呪文をボスに使ってみる。女の子が後ろから応援してくれる。苦難を乗り越え、神聖な儀式を終え、そして驚きの告白を母から告げられる。

16歳の旅立ち。これを聞いてドラゴンクエスト3を連想した人が、一体どれだけいるのだろう。わたしのかわいい○○、と起こされて、父の仇討ちに行くあの話を。

村の外を走り回ってみると、おおがらすや一角うさぎ、スライムがいた。特におおがらすは、3の町の外にもよくいたものだ。確か前は骨を落として攻撃してきたんだったか。新しいゲームをやっているはずなのに、懐かしさを感じさせる。登場人物やグラフィックは新しいはずなのに、当時のモンスターは生き生きとプレイヤーに向かって容赦なく飛び込んでくる。

 

荒くれや神父さんのリアルな造形は、ドラゴンクエスト8で見たままだ。緑や洞窟の質感は更に増している。古きと新しきが同居した世界。

たたかうのコマンドウインドウは昔のままだが、攻撃をするとき主人公がボイスをしゃべる。ふっ、とか、はあっ、とか、掛け声程度だが。

これが案外、攻撃のリアルさのようなものを感じて、良い。掛け声があるだけで、初めに主人公が覚える呪文にも、現実味を帯びる。そして掛け声程度以外のことを話さない主人公も、またドラゴンクエストの形式美である。

進化した景色を眺めながら、形式美を味わう。とりあえず、ドラゴンクエスト11Sの楽しみ方は、これでいこうと思う。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

馬に乗り、大きな街に着きました。大きすぎて探索でひいこら言ってます。

勇者と共にある日々を決意する。

ドラゴンクエスト11 Sの記事を書くことにした。

きっかけは単純なもので、最近ちょこちょこやっているスマブラを起動させたら、本日発売のドラクエ11Sのニュースが流れてきたからだ。

11の良い噂はよく聞いていた。ぜひともやってほしいと薦められたこともある。それだけ良い物なら文章もはかどるだろうと、ゲームをプレイすることにした。ソフトをいつ買えるのかは分からないが、購入次第始めてみようと思う。

 

思えば物語のある据え置きゲームから離れて久しい。スマブラマリオカートは友人とやっていても、一人用のゲームを腰を据えてじっくりとやる機会はなかった。

ドラゴンクエストには馴染みがある。10以外は家にソフトがあったし、姉がやったり父がやったり、自分でもプレイしたりした。メラからギガデインジゴスパークバギムーチョなんて名前の呪文も知っている。

この前ロフトに行ったら、ロフトとコラボした黄色いスライムのグッズが売っていた。そのプリティなフォルムの愛らしい顔に飛びつくように駆け寄り、買うか買うまいか数分頭を悩ませていた。

それくらい、ドラゴンクエストには馴染みがある。そんな人間がドラゴンクエスト11Sをプレイするのが、この記事である。

 

ただし、本記事にはルールがある。

まず、攻略情報は一切載っけない。何なら村の名前や人物の名前すらも、できる限り載せないようにする。この記事を読んだ後、今から初めてプレイする人にも最大限楽しんで貰えるようにする為の配慮だ。進捗は、プレイしたことがある人には分かるようにほんのりと表現するようにする。

そして更新はおそらく不定期である。久しぶりに据え置きゲームをプレイする、かつ、わたし自身も攻略情報は一切見ないでプレイすることにしたので、段階によってはものすごく詰まるかもしれない。それはそれで関係ない記事を載せるつもりではあります。

攻略情報がないのにどう記事を進ませるかは、この後の記事を読んで貰えればと思います。本記事は物語ではなく、物語を楽しむ筆者にピントを合わせます。

 

さて、これを書いているうちに、体験版のダウンロードが終わった。剣を構えた主人公が、こちらに誘うような目線を向けている。

よーし、やってやろうではないか、そちらがその気なら。風呂上がりの髪をかき上げつつ、勝手に盛り上がって勝手にエーボタンを押すのだった。

それにしても、スイッチの効果音は小気味良くて永遠に聞いていられる快感がある。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

興味がある人は付き合っていただけるとうれしいです。

ゆるり、日常に差し迫る料理の神秘

「今日のこれ何?」「牛のしぐれ煮」わたしがこんな会話をする人間になるとは、1年前のわたしは夢にも思わなかっただろう。それも、「牛のしぐれ煮」と言う側に。

 

高校の頃、おにぎりパーティーをしようという提案があった。学校から一番近い好母ひおりの家で、気の合う友人と、色々なおにぎりを作って食べようという試みだ。わたしはすぐに頷いた。自分の家でパーティーをするなんて初めてだった。

友人を家に招き、鮭や筋子、果てはチョコレートなんて博打まで並んだ様々なラインナップを机の上に置き、さあ作ろうと炊飯器でご飯を炊くところから始めた。皆で炊飯器を囲むなんて家庭科の授業ぶりだろうか。パーティーに浮き足立った雰囲気で、小突きあい、弾かれるような笑い声と共に冗談を言い合う中で。

「お米ってここまで入れれば良いの?」

わたしは炊飯器に刻まれた白いラインを指差した。

途端、わいわいとした空気が一斉に凍り付いた。「え?マジ?」と冷め切った確認の眼差しが向けられる。問いの答えは返ってこなかったが、わたしはその空気でひしひしと「違う」を感じた。わいわいがざわ……ざわ……になった瞬間だった。

お米は計量カップで測り、どれくらいの量を何杯入れたかで決まる。高校生のわたしは、それを見事に知らなかったのである。

これは今でもこの頃の友人に語り継がれる伝説だ。「好母、お米の炊き方知らなかったしな〜」という台詞は、料理の話題になる度にあちこちから飛び出ていた。

 

冗談ではなく、本気で、大学から出るまでキッチンに立った時間は1時間もなかっただろう。わたしはそんな人間だった。

「包丁を使ってるところなんて見ると危なっかしいから」と、母親に立つことを許されなかったのだ。料理をするようになったのは、本当にここ半年くらいの話だ。

 

それを踏まえて言うが、料理は楽しい。

何が楽しいって、つくることそのものが楽しい。

考えてもみてほしい。肉や魚、野菜など、わたし達がそのままでは食べられないまたは食べにくいものを、加熱したり、切ったりして、食べやすく形を整えるのだ。それも、肉にしたって薄切りだったりひき肉だったり、形は千差万別と言える。それも、オリーブオイルで炒めてからコンソメを振り掛けて煮詰めるか、ごま油で炒めてから醤油とみりん、酒で煮詰めるかで、全然味が変わってくる。同じひき肉でも。

肉の赤色が茶色に変わる瞬間の、化学反応とも言える面白さ。野菜を炒めたときのこうばしくも独特なふわりとした香り。苦手な青臭い玉ねぎが、炒めれば柔らかく甘くなる不思議。かつおだしを煮出したの、あの黄金の美しさ。

 

料理とは神秘だ。色々なものの神秘を目の当たりに出来る、絶好の機会と言えよう。

この変わっていく過程が楽しい。おかげで自分で料理を作る日は、その過程に満足してしまっていつもより食欲が減ってしまうくらいになっていた。

うまく出来ない料理が出来た時も嬉しい。ハンバーグはひっくり返すのに5敗はしたが、うまく焼けたときはやっぱり嬉しいものだ。

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小さいときから知らなくても、今知ると面白い。

料理を義務ではなく娯楽として楽しんでいる、はたちもそこそこに過ぎた今日この頃なのだった。20までお味噌汁を作ったことがなくても、どうにかなったのだなあ。

 

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ここまで読んでいただきありがとうございます。

ルーを使わないでカレーやハヤシライスを作るのも、なかなかオツですね。

 

 

 

 

心の健康と空き時間のはなし

休暇をもらってから1週間ほど経ちました。ごくごく最近になってようやく、「空き時間」というものが認識できるようになってきた。

と言うのも。これは自分の経験の話だけども、精神的に疲れている時、いわゆる病みかけている時というのは、「暇な時間」が一切ないのだ。「空き時間」の概念が頭から消えているのだ。

 

暇な時間がないと言うと、「常に忙しい人」というイメージがあると思う。しかしそれは少し違う。もっと正確に言うならば、「心を休める時間がない」のだ。

休暇をもらってしばらくしてからも、わたしは「こんな大事な時に休んで良いのだろうか」と、ソファに座りながら不安に駆られていた。ゆっくり休むという行為が心を蝕むようになってきたら、とても危ない。「9月末には仕事を辞めるし、この時間を利用して仕事探した方が……」「あと掃除もしなきゃ、段ボールも片付けないと……」これこそが心が疲れていることのしるしだと、今はようやく感じることが出来てきたのだが、当時はそんな心の整理すら出来なかった。

 

前の記事に、「人は病んでくると好きなことに興味がなくなってくる」と書いたことがある。これも、置き換えてしまえば「好きなことを楽しむ時間がなくなり、結果的にそれから遠ざかってしまう」とも言えるのだ。

部屋の様子に例えると分かりやすいかもしれない。心が健康な人は、適度に心の掃除をして、空いたスペースを作ることが出来る。そのスペースを利用して、自分が楽しむための道具を置いたり、ゆっくりくつろぐための布団を敷いたり出来る。

しかし頭の中があらゆる思考でいっぱいになったりして、頭の中が忙しい人は、だんだん心が不健康になっていく。部屋は散らかり、いらないものが置いてあっても、それを掃除する余裕もない。それどころか、自分の部屋の存在すらも置いておいて、別のなにかに打ち込んでしまう。

そんな人が、娯楽を気に掛けることが出来るはずがない。娯楽に身を浸からせようと足を入れた途端に、「あ、あれしなきゃ」「こんなことしてる余裕なんてない」と足を引っこ抜いてしまうからだ。

休むことのない激務に心は疲れ……と負のループに陥ってゆく。「ストレス解消の手段があるのは大事」というのは、つまりそういうことなのだろう。

 

どこかで、「真面目な人ほど心が病みやすい」と聞いたことがある。これも、上の現象が当てはまる。

真面目な人ほど、「休んでなんていられない」という思考になってしまいやすい。休憩することに対して不器用な人が多いからだ。これに加えて「息抜きをすることはサボりだ」という価値観を持ってしまえば、もしくはそう思うようになってしまってきていれば、それはすごく危ない状態だ。

これは己に対してもだが、他者に対しても。何もお茶を飲んだりトイレに行ったりご飯を食べたりすることは、悪いことではない。疑ってしまう自分の心は疲れているのだと思い直すことも、心の健康には必須だろう。

 

心は管理するものだ。空き時間とは、健康な心がつくりだすものだ。その空き時間で何をするかも、健康な心があってこそ、考えられる。備忘録としてここに残しておこう。

 

ここまで読んでいただきありがとうございます。

「忙しい、忙しい」とせわしなく動いている人にも、空き時間は存在する。